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生き写した鏡の宿命
鏡に魔力を注いではならない。
何故なら、それは禁忌ともいえる行為であるからだ。
皆、鏡を畏れているのだ。鏡はあらゆるものをそのまま写す。
もし、光も闇も反射する性質をもつ鏡に魔力を流し込んでしまったら……
さあ、どこから話そうか。この悪夢についての記憶を。
少年は閉じ込められて育った。人と隔離された孤独な場所で、感情を知らないまま。
その少年の名前はエルム。青紫色の稀なる瞳の美しい少年だった……だが、彼は禁忌を犯した。代償は大きく、やがて心を壊してしまった。
切欠はほんの些細な願いから始まった。鏡はなんでも応えてくれる、世界を鮮明に写し出してくれる、それならばと。魔が差したというより、純粋な好奇心だった。
語らない鏡でも、いつだって話し相手になってくれた。曇った鏡は触れれば熱で涙のように濡れる。鏡が隔てた向こうには、同じ姿がそこにあった。この世に一つしか無いものも、鏡を望めば二つにできる。少年はその魅力の虜になった。鏡ならば満たしてくれる……甘美な誘惑は鏡面に光を集めた。
この鏡が欲しい。向こうの景色に触れてみたい。似て非なる世界の隔たりは、この薄い扉一つ。自分が動けば、鏡の自分も真似をする。鏡の前なら独りではない。この歓喜は鏡にそっくり反映される。少年はただ震えた。ああ、鏡の中の世界が手に入ればいいのに。……どうして鏡の先には手が届かない?
ここから、鏡に惹かれて少年が堕ちていく物語は始まるのだ。
「僕はね、エルムっていうんだ。いつも鏡を通して一緒にいてくれる君は誰? 友達や双子は異なるかな、生まれ変わり? それとも悪戯な幻覚かい? 思考も行動も声さえ、きっと僕と同じだ。違うのは、見えるだけで、触れられないということを除いて……他は全部僕のはずなのに。やっぱり偽物の世界なんだろうか、君のいる鏡の先の景色は……。知りたいだけだよ……教えてよ」
虚ろな少年の瞳は闇に色を失くした。鏡もまた、光なき瞳を主へと返す。
少年は鏡の禁忌に関しては一切何一つ知らなかった。膨大な魔力を持つ彼が、鏡にその力をぶつければ無事で済むはずがない。鏡は何もかもを返してくるから。
彼には空っぽな心を満たせる環境も、友人も、家族も、何もなかった。頼れるものはない。空虚で飢えた心臓は、ひたすらつまらない時を刻むばかり。だから、幼い心のまま、進めていないのである。
少年が鏡の自分に名前をつけるようになったのは、気紛れな日常の我儘な欲求による。
「ねぇ、いつも見てくるだけで声は聞こえない君。名前はそう、ミラーレスなんてどうかな。略して、僕と同じ3音のミレスにしようか。君と繋がれるのは鏡を除いてありはしないけれど……鏡の壁が無いならいいのにという願いを込めてね」
いつも一方的に話しかけている少年。笑いには笑い、涙には涙。一方通行に打たれ跳ね返る感情。鏡の壁に温度はないのに、共に微笑み安堵してくれていたことが……少しだけ温かな気持ちをくれた。
いつか、君がその壁を超えて会いに来てくれはしないの?
儚い想い。切なく胸を締め付ける夢。だが欲して仕方なかったのだ。鏡に必死に訴えた。想うまま全てを。
「やっぱり、ミレスも僕と同じなんだね。この隔たりから、孤独の檻を抜け出したいんだ。いつか救い出したいよ、君を。ずーっと一緒にいようね、ミレス」
そう心に誓い時は流れた。そして、ある日のこと。
「鏡が、割れてる。世界が砕けて欠片になっている」
鏡は予告なんてあるはずもない、突然罅が入り知らぬ間に亀裂と共に割れ、粉々に砕け散ったのだ。
「ああ、あぁ……なんて脆くて、醜いんだろう。ミレスも僕とおんなじ。鏡の薄さと壁の厚さにほら、望みを失くして泣いている」
少年はミレスの綺麗な顔を見たいと、鏡へと想いの丈を魔力で放出した。
これが、悲劇の始まり。
「やっと、会えたね。エルム」
「君は、ミレス」
「そうさ。エルムの居場所は僕の居場所なんだ。言葉が壁なく伝わって、想いが通じる。なんて素敵だろう」
「素晴らしいよ。ねぇミレス。君は絶対に、僕より先に死なないでね。君が死ぬときは僕が決める、だからそれまではずっと生きて。そして、僕を忘れないで」
懇願するエルムは、何かに恐怖していた。ミレスの喪失が、とても怖いのだ。――このとき交わした言葉は後に枷となり、現実に重くのしかかるとは知らずに。
鏡は魔力の影響を受け、エルムに跳ね返した。それと同時に生まれたのは、エルムが望んだミレスだ。瓜二つの内面外見を持ち、同じ温度を感じられる存在となって現れた。願っていた友達。精神までコピーされたミレスという名の、エルムの残影。誰よりもエルムを知っている、複製された現実の証明。生まれ変わったような心地だった。
あ、おっと、昔話はここまで。じゃあ、もうおやすみ。
鏡は怖いよ。言った言葉を返して、現実に取って代わろうとする。悪夢の話なんて、君には酷だったね。
誰もいない墓地で独り、少年は話す――――
――ごめんよ、エルム。世界でたった一人の僕の片割れ。鏡を通して干渉してきたかけがえなき半身、……君の生きていた世界よ。どうか愚かな僕をころしてくれ。
僕はあの日、鏡から生まれたエルムの欠片。僕はね……君の居場所を奪い、姿を盗むような……決していてはならない存在なんだ。時間が流れず、死ぬこともできない鏡の身体を持っている故に。僕はあちら側から来たから、鏡には映らない。結局つくりものに過ぎない存在なんだ。
鏡の向こうでずっと見ていた君。エルムとの日々は幸せで楽しくて心地よかった。
でも、君は僕を置いていくんだね……僕より十年くらいしか歳を重ねていないのに、あっさり勝手に逝ってしまった。僕自身の鏡の呪いについて気付いたときにはもう遅かった。君は精神を既に病んでいた。心も緩やかに壊れていた。けれど、僕にはエルムを救うことはできなかった。ずっと近くに、側にいながら……。
所詮は鏡。鏡が覆す運命はない。鏡はただ運命を写し看取ることしか、出来はしなかったのに。無力な自分が悔しくて、涙がぱらぱら落ちる。
エルムの居場所には僕……ミレスも一緒にいる。それが当たり前だと思っていた。続かない君との日々への哀しみ、果てしなく終わらず続く苦しみ。
鏡は、魂を写す分身。本当の主を失ったら、永劫の呪縛を受ける。つまり、エルム以外に解呪できないということ。ミレスへの言霊による呪縛は、エルムが死んでもなお続く。約束、誓約、呪縛。どうあがいても消せない。置いていかれて寂しい……しかし彷徨い続けるしかない。君は忘却して逃げることさえ許してはくれない。僕は閉ざされた世界の迷子なのか。
全く嬉しくないこの不死の身体。君を悼み、泣き崩れても、この心の傷は埋まることなく深まる。終わりのない絶望から、いい加減解放されたいのにね。現実は優しくない、残酷だ。美しい世界が憎くてたまらないよ。
「エルム。もう一度だけでいい、君の笑顔を見せて…………」
また見たいと思うのに……エルムと同じ顔は鏡に決して写ることはない。そして、エルムが死んだ現実では、写真等ですらその姿を望むことは叶わない。鏡の主が死ねば、その姿が鏡に写されることは無くなる宿命。願いを打ち消す死の鎖。ミレスの瞳はその鏡。
「もう……二度と、君に、会えない…………!」
写真越しでも何でもいい。生きていた君をたった一度でいい。この瞳に写したかったのに。
「鏡よ、鏡。どうして君を写さないの」
君と共に眠りにつけたら、どれほどこの身は救われたのだろうか。
少年は膝から崩れ落ち、鈍色に染まる空の下で哀しみの雨に濡れた。霞む視界。冷たい世界を色のない涙が零れ続ける。雨と涙とで滲んで消える、思い出。
孤独な日を繰り返し、君がいた世界から君を想い続ける。二つあったものは、一つになれないまま。
鏡が、この世に生まれてから初めて見た夢は……太陽のような片割れが穏やかに笑う夢。太陽が照らし出す世界の裏で、鏡の向こうを想い続けてきた。夢では存在を確かめ合えても、この現実では確かめ合うことも叶わず。
影の中にある君の墓は、闇に浮かんで暗いまま。重い雲の切れ間を縫って、ここに光が射し込んだら……もしかしたら、君を映し出すのではないか、と夢幻に逃避する鏡。
青紫の瞳に、いつからか溶け込んでいた感情。
この心は、きっと――"君とお揃い"でも"君の複製品"なわけでもない。僕は君から沢山のものを貰った。感情と姿と……君にしか与えられない筈のものを、全て。だけど、君がいるから……受け入れられたし、満たされたんだ。今の己に、君を重ねて辛くて痛くて張り裂けそうな想いがする。
耐えかねる苦痛。僕は、一つでも君に返せていたのかな? 僕は、君の心を知りたい。
君の代わりなんて、いない! 僕は、君の姿や声……何もかもを模していながら、"君"にはなれない。
未だに彼は、水鏡にすら縋れない現実を悔いている。俯いて、鏡の瞳は光を失くしていた。
写らない鏡面に、見えない面影に、ミレスの届かぬ叫びが反響した。
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