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それが今、私が腑抜けのような状態になってしまったことで、放置されたままになっている。今から庭の草木を蘇らせることは、私には無理だろう。でも、庭に美しい花が咲いていた時のことは、よく覚えている。ならば、その頃の「絵を描く」ことは出来るんじゃないか……?
それが果たして何の役に立つのか、そんなことはもうどうでも良かった。とにかく私はこの家に、妻がいたことの証を残すべきだと考えたのだ。私はイーゼルを引っ張り出し、部屋から庭を正面に見る位置に置くと。その上に真っ白なキャンバスを乗せ、絵筆を右手に持ち、改めて庭先をじっと見つめた。
……ああ、覚えている。あそこには黄色の、あそこにはピンクの花が。妻が綺麗に並べた鉢の形も色も、全部覚えている……!
私は絵筆に絵の具を付け、「ぐいっ」とひと筆目をキャンバスに刻み込んだ。そこからはもう、無我夢中だった。もしかしたら私の記憶も、いつか薄れてしまうかもしれない。そうならないうちに、このキャンバスに描くんだ。ここに再現するんだ。「妻が生きていた時」の、あの光景を……!
それからどれくらいの時間が経ったのか、正確なことは覚えていない。数時間か半日か、もしかしたら丸一日、キャンバスの前に座っていたかもしれない。だが、気が付いた時には。目の前のキャンバスに、色鮮やかに花が咲き誇る庭の光景が、蘇っていた。
出来た……。
私は、自身で描き上げた絵の完成度に、我ながら満足していた。今は失われてしまった光景が、キャンバスの中に生きている。この絵があれば、私の記憶も薄れることはない。そう、美しかった庭も、そこで草木の世話をしていた妻のことも……。
そこで私は、ポトリと筆を落とし。そのまま、崩れるように床に横たわると、深い深い眠りに落ちた。妻を亡くしてから初めて何かを成し遂げた、その達成感に包まれるように。
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