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「美紅? 寝てるのか……」
颯汰は、自分のベッドの上で無防備な姿を晒す幼馴染の顔を覗き込んだ。
「……んぅ」
唇をもごもご動かす美紅だが、起きる気配はなさそうに見える。
「…………はぁ」
ため息をついた颯汰は、毛布をそっと彼女にかけた。ベッドを背にして床に座り、参考書を開く。
「む、むう……」
数分後、聞こえてきた声に颯汰が振り返ると、不機嫌そうに頰を膨らませている美紅が睨んでいた。
「お、起きたか」
「なんで、なんでぇ……」
冷蔵庫に入れておいたプリンを食べられてしまったような、悔しさと恨みが滲み出ている目で颯汰を見ている美紅。
「眠気を我慢するより、適度な昼寝をした方が効率上がるからな。十五分経ったら起こそうと思ってたんだが」
「そうじゃない!」
「え?」
「もういい!」
美紅はベッドから降り、床を踏み鳴らしてローテーブルの前に座った。
「なんだよ。嫌な夢でも見たのか」
「もういいから! 勉強しよ。教えて!」
「ん。どこがわからないんだ?」
「えーと……」
教科書の解説を聞きながら、美紅は唇を尖らせつつ颯汰を見ている。
一方、美紅の視線に全く気が付いていない颯汰。どう教えたら美紅が理解出来るか、そのことに集中しているのだ。
美紅は、そっと唇の下の窪みを右手の中指でなぞった。
せっかく可愛い色付きグロスまでつけたのに。こうもスルーされると、やっぱり私って色気ないのかな、って思っちゃうよ……
自然な血色感で、ぷるんとした艶の濡れた唇になれるというリップグロス。
『カレにキスされちゃう魅惑のリップグロス』とSNSで多くのインフルエンサーに取り上げられている商品だ。
アルバイトをしているとはいえ、高校生のお財布から出すにはちょっとお高いそれを、勇気を出して買ったというのに!
颯汰は、私とそういうこと、したくないの?
「美紅、聞いてるか?」
「えっ、あ。うん」
「じゃあ、この問題解いてみてくれ。今の俺の話を理解していれば解けるはずだ」
「うん」
真面目に聞いていなかったので理解もなにもないのだが、それを言うと面倒なことになる。美紅は勉強モードに表情と頭を切り替えた。
「…………」
問題を解く美紅を見つめる颯汰は、内心動揺している。
今日の美紅、いつもと違うよな……
ぷるぷるの濡れた唇……
なんというか、美味しそうだな……
颯汰は首を振った。
いやいやいやいや、今日の俺はどうかしている。
さっきだって、ベッドに寝転んでいた美紅に対してあらぬ妄想を……うわあああ!
颯汰は無表情で美紅を眺めているが、心の中では頭を抱えてゴロゴロ転がっていた。
幼馴染の颯汰と美紅が付き合いはじめて半年と四日。
ふたりは、まだキスをしていない。
「お、終わったぁ……」
「おー、お疲れ……」
どうにか本日の予定分を終わらせ、同時に大きく息を吐くふたり。
序盤は雑念が多く進みが悪かったため、予定より少し時間がかかってしまった。もう夕方だ。
「颯汰、ありがとう。私ひとりだったら解けなかったよー。試験もいけそうな気がしてきた!」
「それは良かった」
目が合うふたり。
数秒間の沈黙。
美紅の唇が何かを言いたそうに動き、きゅっと結ばれる。
「……えーと、じゃあ、帰るね……あっ!」
気まずさに耐えられなくなった美紅は、立ち上がったものの、バランスを崩してしまった。
「美紅!」
「……!」
至近距離で目を丸くして見つめ合うこと数十秒。
「な、な、な……」
「うお……マジで……?」
颯汰が美紅を支えようとしたものの、支えきれず、そのまま床に倒れ込んでしまった。
そしてその際、お互いの唇が半分ほど触れ合ってしまったのだ。
「………………」
「ご、ごめん、美紅! 本当にごめん、ごめんなさい」
顔を真っ赤にして唇を震わせる美紅に、平謝りする颯汰。
「……な、なんでぇ……」
美紅が涙をぽろぽろと流し始めた。
それを見て、切腹を決意した武士のような顔になり、土下座をする颯汰。
「なんで、なんで謝るの……」
「いや、だって、事故とはいえ、あんな……嫌だっただろ? だから……」
「ソータは、ソータは、わたしとキスするの、いやだったのっ……?」
幼い頃のような発音で名を呼ばれた颯汰は、思わず顔を上げ、美紅の手を握りしめる。
「そんなわけない! あ、いや、キス自体は、したいかしたくないかで言えば、したかったけど、その、こんな事故みたいな形になって、申し訳ない気持ちでいっぱいというか」
「……したかった?」
「あー、うん……」
「なによそれぇ……」
「なによそれって何……」
美紅はこれまで悩んでいたことを、ぽつりぽつりと話した。
周りの彼氏持ちの子たちに聞いたんだけど、みんな付き合ってすぐとか、遅くとも四ヶ月後にはキスしてるんだって。
でも、私たち、クリスマスも何もなかったし、付き合って半年経っても、一度もそういう雰囲気になったことがないし。私に色気がないからだと思ってた。
「あー、いや、その……したいと思ってるよ。マジで」
「じゃあなんで……」
「こういうのは、自然な流れに任せたかったというか……」
「顔を近づけてみたり、上目遣いで覗き込んだり、うたた寝してみたけど、颯汰そんな素振り、まったく、これっぽっちも、見せてくれなかったじゃん!」
「さっきの、狸寝入りだったのかよ……」
「突っ込むところ、そこじゃない!」
「付き合って何ヶ月とか、何かのイベントだからじゃなくて、俺と美紅のタイミングでしたかったんだよ」
わめく美紅をなだめる颯汰。
頭をそっと撫でられた美紅は、頰を膨らませつつも満更でもない表情をしている。
「そんなの……」
「もっといいタイミングがあるかもって、ためらってばかりだったことは認めるし、謝る」
「なにそれ、ひどい……ためらった結果がこれだよ。初めてのキス、こんな事故みたいなのじゃなくて……ちゃんとしたのが良かったのに」
「……初めて……あー、えーと……うん。ごめん」
「謝らないでよ!」
「……ど、どうしたら……」
颯汰は狼狽え、美紅は視線を逸らしている。
「今、して」
颯汰の方を見ないまま言う美紅。頰は膨らみ、赤く染まっている。
「へっ?」
「だから、今して!」
今度は颯汰の目をまっすぐに見つめながら言う美紅。
「いや、流石にそれは……」
「じゃあ、いつなの? 何年何月何日何時何分何十何秒?」
「地球が何回まわった時、って小学生みたいなこと言うな」
颯汰のツッコミに、美紅は笑い出した。
「な、なんだよ」
彼の肩に手を置く美紅の顔は真っ赤だ。
そして、それを見る颯汰の頰も染まっていく。
「今度、したいと思った時に、して」
「じゃあ、今だな」
「え、ちょっと……」
颯汰に背を向け、色付きリップグロスを塗り直す美紅。
彼女を横目で見ながら、颯汰は息を吐く。
「四歳の時のキスは覚えてないか……」
その呟きは彼女の耳に届くことはなく、防災行政無線のチャイムの音にかき消されていった。
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