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その男は全身、黒で覆われていた。
黒スーツに黒スラックス。
黒いYシャツに靴下も黒。
さらには黒いシルクハットまで被っている。
全身黒ずくめの男は黒いステッキを付きながら町中を歩いていた。
「黒おじさん」
陰でそう呼ばれていた男は、特に何をするでもなくプラプラと町中を歩いては時折公園のベンチで身体を休めていた。
そんな彼を、町の人々はコソコソと噂する。
「きっと死神よ」
「ああやって町を歩いてあの世に連れて行く人を選んでるんだわ」
「おお怖い」
しかし男はそんな噂話にも耳を傾けることはなかった。
ある日、町を歩く彼の元に複数の警官がやってきた。
毎日黒い服で歩き回る男に、ついに町の人々が我慢しきれなくなって通報したのだ。
「きみ、ちょっといいかな」
警官の一人が男に話しかける。
男は微動だにせず「なんでしょう」と答えた。
「きみは何をしてるのかな?」
「何といわれましても。散歩してるだけです」
そう言われてしまえばおしまいだった。
現に、男は言葉通り歩いていただけなのだから。
しかし警官も引き下がらなかった。
万が一町の住民に危害を加えるような危険人物であったなら、対処しなければならない。
「近所から通報があってね。全身黒ずくめの男が毎日歩いてて怖いと。できれば身分を証明するものを見せて欲しいのだけど」
「持ってません」
「仕事は何をしてるのかな?」
「してません」
「してないの? 生活費はどうやって工面してるんだい?」
「別にお金は必要ないですから」
「ご両親は?」
「一昨年、他界しました」
ううむ、と警官たちは頭を抱えた。
完全にシロとは言いづらいが、黒とも言い切れない。
しかしこのまま放っておくのも危険だ。
警官のひとりが言った。
「じゃあ君の名前と住所を教えてくれるかな?」
「言いたくありません」
ここで初めて男は拒否の姿勢を示した。
「言いたくないの?」
「はい、言いたくありません」
「どうして?」
「言いたくないからです」
グレーな部分が、だんだんダークに近づいていく。
この男には、何かあるに違いない。
「答えたくなければ答えなくていいよ。こちらが調べるまでだから」
隠しててもいずれバレるということを暗に伝えたのだが、男は「いいですよ、調べてください」と答えただけだった。
それ以上は警官たちもどうすることもできず、男を解放した。
「くれぐれも変な考えは起こさないように」
それだけ言い残して去っていく警官たちを眺めながら、男はホッと息をついた。
彼の目には、白い制服を着た顔面蒼白の警官たちが映っている。
いや、警官たちだけではない。
近くでヒソヒソ話している住民たちも、公園で遊ぶ子どもたちも、配達している運転手も、みんな全身「真っ白」な服を着ている。
そしてその顔には生気はない。
「死装束とはよく言ったものだ」
男は確信していた。
ここはあの世とこの世の境目。
なぜここに迷い込んだかわからないが、男は幸い黒い服を着ていて連れていかれないで済んでいる。
もし白い服に着替えたらすぐにでもあの世へと連れていかれるだろう。
いや、ここの住人として生気のない顔で暮らし続けるのかもしれない。
それだけは嫌だ。
男は黒い服を着ながら毎日脱出路を探しているのだった。
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