黒羽織

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「……そろそろ、屋敷に戻らねば」  軽く唇を噛んだ雪政は、かんっ、と音高く竹製の灰吹(はいふき)へ吸い殻を落とす。 ――幕切れの音。  幕が引き切るのを待つ時のように、梅之丞は澄んだ表情(かお)を作る。  忘れないで、忘れないで、私がここにいたことを、あなたが舞台(ここ)で私を()たことを、どうかいつまでも、覚えていて――。  やがて立ち上がった二人はそれぞれの肩に長襦袢(なかじゅばん)を羽織り、めいめいの着物を重ねて行く。  (なま)の心が(おお)われるようで、梅之丞は安堵(あんど)の息をついた。 ――このひとは、御武家様。  駆け出しの歌舞伎役者で陰間(かげま)の私とは……所詮(しょせん)初めから住む世界が違っている。  逢瀬(おうせ)のあとで梅之丞に身支度(みじたく)を手伝われることを、最初の夜から雪政は嫌っていた。  おかしな御方(おかた)、と無邪気に笑ったあの日のことが、やけに懐かしい。  でも今なら分かる。  これは私と雪政様を(へだ)てる高い壁。  着物を(まと)ったこのひとは、このひとのほんとうは、――私のものじゃ、ない。  梅之丞はつとめて(はず)む声を出した。
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