最終回 ・ 恋のおわり (花瀬side)

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最終回 ・ 恋のおわり (花瀬side)

そう、思っていたのに。 龍彦さんの言葉に、僕は確かに"安堵"した。傲慢な中に、抱いたばかりの男に対する情を見て、すごく…安堵したのだ。 あれだけ性急で激しくありながら、彼のセックスには妙な優しさがあった。その大きな手で高められ、愉悦を与えられて、一方的に陵辱されたという気が全くない。 彼が色事に長けているのも、理由のひとつだったろう。でもそれだけではなく、おそらく僕と龍彦さんは、奇跡的なまでに体の相性が良いのだ。でなければ、感情を抜いてのあの行為が、あれだけ悦い筈がない。 水村先輩の時とは違う、けれど確かに幸福を感じる、何か。それが、龍彦さんのセックスにはあった。 そんなものを知ってしまったのに、この申し出を蹴って店に戻りたいなんて思わない。 だから僕は、静かに彼の目を見つめて頷いた。 龍彦さんが、上部組織の中でもそれなりの地位にある人だと明かされたのは、その直後だった。 僕はそのまま、店に戻される事なく除籍となった。要するに、水揚げだ。元々俺には、オーナーが米田に払った売買金が、何故か借金とされていた。しかし予想外だったのは、僕が売れだしたのを知った米田が、オーナーに金を無心し、勝手に借金が増えていた事だ。 だが僕を落籍(ひ)かせた龍彦さんが、それらの借金を肩代わりした上、別で五百万を積んだので、オーナーは大人しく引き下がった。上相手に欲をかくとロクな事がないとわかっているんだろう。だが、勝手な真似をしていた米田は……果たして無事でいられるだろうか? ほんの少しだけ、米田の末路を思った。 その夜の内に、僕は新たな住処だという、郊外のマンションに連れて行かれた。外観は、ややレトロ風の洒落たレンガ調で、室内は広めの3LDK。相続した物件だとの事だが、詳しくは聞かない事にした。米田のマンションを出てからの数ヶ月、狭くて最低限の設備だけしかない店の寮出暮らしていた僕には、広くて小綺麗なだけで、人心地つくには十分だった。 数年、誰も住んでいないという事だが、管理を委託しているところが定期的に清掃や換気に入っているらしく、空気の澱みはない。ただ、家具、家電、インテリアは少し古めだった為、数日内に新しいものに入れ替えてもらう事になった。僕としては、年代物過ぎた家電さえ替えてくれたら、後は別にかまわなかったのだが、龍彦さんはそうもいかないらしい。 「今日はとりあえず、見せに連れてきただけだ。たまに寝に来る事もあって、電気も水道も生きてる。一週間で住めるようにしてやるから、それまでは近くのホテルを取ってあるからそこに居ろ」 部屋のあちこちを点検しながら、龍彦さんはそう言った。 「はい」 「俺が居ない間は世話人を付けておく。何かあれば、そいつに頼め」 「わかりました」 あっさり頷くと、龍彦さんが妙な顔をした。 「なんです?」 「さっきも思ったが…お前、全然イヤって言わねえな」 言われて、思わず鼻から笑いが漏れてしまった。その時、僕が初めて笑ったのを見て、龍彦さんは驚いたように目を見開いていた。 「慣れてますから。人に運命を決められるの」 「慣れてる?」 「でも、籠が変われば、それも悪くないですね」 僕の言葉に、龍彦さんは少し難しい顔をする。僕はそれを見て、また笑った。 壁紙まですっかり一新された部屋に住み始めて二週間ばかり経った頃の事。 僕は寝物語に、龍彦さんに妻子が居る事と、既に愛人が2人居る事を知らされた。 けれどまあ、それはある程度想定の範囲だったので、そう驚きはなかった。彼のような稼業の人なら不思議は無いし、堅気でありながら息子の同級生の男を囲ってた米田よりは遥かにマシだ。 そもそも、僕達の関係は恋愛ではない。故に、彼に何がどれだけ居たとしても、それは問題にはなりえなかった。 「他に女がいるのは嫌か?」 二人で横たわったベッドの中、そう聞いてきた彼に、僕は首を横に振った。 「かまいません、そんなのは」 強がりではなく、本心だった。 本当に、2番目でも3番目でも、何番目だっていい。龍彦さんとのセックスは、水村先輩がくれたものに近い幸せをくれる。愛が無くても、それだけで十分幸せだ。 水村先輩の事は、今でも好きだ。僕の初恋で、特別で、きっと死ぬまで忘れられない。でも水村先輩は、もうこんな俺には、手が届かない人だ。初恋に処女を捧げられただけでも、僕は幸運だった。 でも今、僕の隣には、僕を地獄から救い上げてくれた龍彦さんがいる。 水村先輩が僕の特別な人なら、龍彦さんは、"特別になりつつある人"だった。 「もし、お前が……いや、いい」 僕の返事に納得がいかなかったのか、龍彦さんは何かを言いかけたが、すぐにやめた。 龍彦さんの愛人になり、半年が過ぎた。 その夜、僕は彼に連れられて食事に出ていた。 米田と違って、龍彦さんは俺を連れ回すのが好きだった。何かと言うとすぐに、買い物だの食事だの映画だのと理由をつけては連れ出される。龍彦さんが言うには、それはデートというものらしい。 けれど、常時お付きの若い衆3、4人に囲まれて2人きりとは言えない。そんな状態でデートと呼べるのかは、まともな交際経験の無い僕でも首を傾げてしまうのだが、龍彦さんがそう言うのなら、そう言う事にしておく。 その日は久々に、隣町にある馴染みの老舗日本料理店に行き、店を出た後は腹ごなしに、近くの繁華街を歩いた。と言っても、迎えの車が待っている大通りに出るまでの、ほんの一本道だ。 龍彦さんの隣に俺、前後に若い衆。現在他所と揉めてる事はなく危険は少ないとはいえ、立場上誰も付けずに出る訳にはいかないらしい。物々しいがこれも仕方ないと、最近では慣れてしまった。 それに、2年もの期間、部屋から出るのを禁じられていた僕としては、こうして外を自由に出歩けるのは、それだけでありがたい。 (さっき飲んだ日本酒、美味しかったな…) 龍彦さんと出会うまで知らなかったのだが、どうやら僕は、意外とお酒が好きなようだった。 とはいえ、好きなのと酒の強さは別らしい。僕はたったのお猪口二杯きりで、現在、ほろ酔いの少しあやしい足取り。それでもご機嫌で歩いていると、ふらっと足がよろけた。 「あ……」 一瞬の浮遊感。だがそれは、すぐに消えた。横から伸びてきた逞しい左腕が、お腹に回り支えてくれたからだった。 「すみません」 「気をつけろ、転ぶぞ」 「ふふ、はぁい」 それからはあぶなっかしいと思われたのか、ずっと龍彦さんの手に腰を支えられて歩いた。多くの通行人や酔客が、コイツらの関係は一体何だとでも言いたげな顔をして、二度見しながらすれ違っていく。そんな視線も、もう慣れっこだった。 知らない有象無象の好奇の目なんかより、龍彦さんが僕を気にかけてくれる嬉しさを味わう方がよっぽど大事だ。 そうして道の途中まできた時。ふと視界の端が光った気がして、そちらに目を向けた。 はたしてそこには、焦がれてやまなかった、あの人の姿があった。 (水村、先輩…) 少しも変わらない輝きを放ちながら、水村先輩はそこに立っていた。いや、見た目はあの頃よりも少し大人びている。こなれたスーツ姿に合わせて髪短めに整えられてた茶色の髪。会社帰りなのだろう。ネクタイを弛め、少し服を着崩しているが、それもまた神がかって格好良い。 感動で、一気に酔いが覚めてしまった。 そんな水村先輩の隣には、やっぱりあの頃と同じように、派手なタイプの女が居た。それに少し安心する。 あの時、どうせ最初で最後だからと無理矢理セックスを頼み込み、目的を遂げたらとっとと雲隠れしてしまった。存在感の薄い僕が居なくなっても先輩は気にしないだろうと思ったけど、考えてみれば、セックスした翌日に姿を消されたら、普通は意味がわからず後味は悪いだろう。 ほんの僅かでも、先輩の気を病ませていたら申し訳ないと思っていた、けれど……。 (相変わらずで、何よりです) 僕は、嬉しくなって先輩を見つめた。水村先輩も僕に気づいているようで、驚いたようにぽかんと口を開いていた。その顔がなんだか可愛く見えて、思わず頬が上がってしまう。 間違いなく目が合った事に、胸が弾んだ。 もう、一生会えないと思っていた。なのにこんなところで……。 ほんの数秒だけのその邂逅が、奇跡のように幸せだった。そして、幸せな僕の隣には、もう別の幸せもある。 とても贅沢な気分だった。 「汰生、どうした?」 様子に気づいたのか、龍彦さんが顔を覗き込みながら問いかけてくる。案ずるように眉を寄せた端正な顔は、それだけ見れば、危ない稼業の人間だとは思えないほどだ。実際、セックスが激しいという部分を除けば、この人はとにかく僕に甘かった。舎弟達に、「過保護」と呆れられるくらい、甘かった。 そんな人に、僅かな心配も与えてはいけない。 僕は首を振って、なんでもないと否定した。 「いえ、別に」 「……そうか。車はもうそこだ」 僕は、龍彦さんに促され、先輩に背を向ける。 思いがけない再会に、心が震えていた。もうこの恋に悔いはない。僕は今度こそ、本当に先輩を思い出にできる。 (お幸せに、水村先輩) 言われた通り、数メートル先には車が見えていた。僕は、龍彦さんと共にそこに向かって歩を進める。 背中にはまだ水村先輩のものであろう視線を感じなから、僕はもう、振り返らなかった。 僕は、僕を支えてくれた幸せな初恋に、ようやくさよならを告げる事ができたのだった。
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