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花瀬 1 (花瀬side)
「ちょっと、蒼樹!」
ごく間近で鼓膜を震わせる甲高い声で我に返る。見ると、連れていたセフレの女が俺の上腕を掴んで揺さぶっていた。どうやら俺は、花瀬の姿を視認してから少しの間、呆けていたようだ。正確には、大学の頃に意識が飛んでいたが正しい。
「あ...」
「どうしたのよ」
「いや、えっと...ごめん」
訝しげな顔をしているセフレに謝りながらも、あの一団の行方を探す。全体的に黒みがかった男ばかりの集団は繁華街の客達の中にあっても目立ち、すぐに目に留まった。 視線の先には、いつの間にか現れた大きな黒塗りの高級国産車。花瀬と花瀬の腰を抱いていた男は、彼らに付き従っていた男達に護られるようにしてその後部座席に乗り込んでいる。
(花瀬...)
「は、」
心と連動するように開きかけた口を噤む。
呼んで、呼び止めて、何になる?何を話す?どんな言葉を掛ける...?今更。
俺が躊躇っている内にドアは閉まり、車は静かに走り去る。俺はそれを、残念さと安堵が入り交じった目で見送った。
あの夜以来、誰に聞いてみても噂のひとつすら聞ける事が無かった後輩との、一瞬の邂逅。それがまさか、こんな形で果たされるとは。正直、複雑な気持ちだ。あまりに跡形無く消えた花瀬には、死亡説まであったから、生存確認出来たのは良かったが、花瀬の回りを固めていたのは、どう見ても関わってはいけない連中だった。所謂、反社会的勢力と称される側の人間。花瀬の隣を歩いていたのは、そんな組織の中での幹部クラスで間違いないと思われる。そんな男と、妙に親密そうだった花瀬。そういう関係、なんだろう。
(あんなに、綺麗なヤツだったっけ?)
今彼は、幸せなんだろうか。あの夜を境に姿を消してから、一体どんな風に生きたらあんな風になるんだろう。まるで、しなやかな夜の蝶のような月下に咲き誇るあやうい華のような。
瞼を閉じると、ついさっき見た花瀬の艶やかな姿が蘇った。
「...蒼樹、大丈夫?」
女に再び声を掛けられ、俺は瞼を開ける。さっきは苛立ち混じりだった女の表情が、少し不安げなものになっていた。この場から動きもせず、喋る事も忘れたような俺に心配になったのか。 俺は苦笑して頷いた。
「ごめん、何でもない。...行こうか」
俺は女を促して、歩き出した。
花瀬。無事な姿が見られて良かった。俺に気づいて笑ってくれた。それだけで十分だ。そもそも俺達は、友人でも恋人でも無かった。ただ一度寝ただけの、先輩と後輩。それだけだった。
けれど。これからも俺は、胸の隅から花瀬の面影を消せないまま、生きて行くのだろうという予感がある。あのあまりに蠱惑的な微笑みを、一度ならず2度までも見てしまったのだから。
今更、もう届かない恋を自覚するなんて、俺って男は本当にどうしようもない。
◆ 花瀬side
「知り合いか?」
後部座席の奥に座る龍彦さんが、ようやく問いを口にした。車が走り出してから既に数分経過しているのに、今?とは思わない。僕はこの人の性格をよく知っているから。
「はい、学生時代の先輩でした...」
「そうか」
そう言ったきり龍彦さんは、また黙ってしまい、暗い窓の外に視線をやった。時折対向車のライトが反射して、形の良い端正な横顔を浮き彫りにする。
宗賀 龍彦。この男(ひと)は、僕の恩人だ。
僕、花瀬 汰生は、人生で三度売られている。最初は産まれてすぐの頃。特別養子縁組とやらで、子供が無かった夫婦、つまり養父母に売られた。僕を産んだのは、高校を卒業したての18歳の未婚女性だったという。
その頃の養父母は経済的に裕福で、僕の生母から提示された金額も言い値で払ったんだとか。 その額、300万。それが赤ん坊の値段として安いのか高いのかは、僕にはわからない。けれど、そんな風にして迎えた僕を、養父母は大事に育ててくれたと思う。欲しい物は大概買い与えられたし、教育費も惜しまれた記憶は無い。中学まではバイオリンや英会話なんて習い事もさせてもらってた。
風向きが変わって来たのは、高校に上がった辺りだ。養父の経営してた会社が経営不振に陥り、その窮状に手を差し伸べるように事業提携を持ち掛けて来た相手が居た。ところがそれには条件が付けられていた。
『おたくの息子さんを気に入っていてね。くれないかな』
当時高一だった僕を取引材料にしようとしてきたのは、小肥りの中年男。その男こそ、事業提携を持ち掛けて来た会社の社長だ。そして、当時の僕のクラスメートの父親だった。何度か友人宅に遊びに行った時に目を付けられたのだ。知らない間に友人の父親に物色されていたなんてゾッとする話だ。妻子ある既婚者でも男が好き、なんてのは実は珍しくはないらしいが、流石に高校生の息子の同級生は不味いだろう。
にも関わらず、男は僕を欲しがった。
勿論、養父母は拒否してくれた。そんなとんでもない条件は飲めないと。基本的に善良な人達だから、大人の事情で未成年の息子を巻き込む(差し出す)なんて有り得ないと思ったんだろう。
まあ、ごく一般的な反応だ。赤ん坊を金で買うような人間が善良?と言う声が聞こえて来そうだが、養父母は「あの金は"売買"ではなく、"赤ん坊を手放さざるをえなかった若く不憫な女性の、その先の人生を立て直す為に寄付したお金"だ」と言って憚らなかった。おためごかしに聞こえるかも知れないが、実際、それは養父母の本心だったと思う。
そして、僕は。
中学で既に出生の秘密をカミングアウトされ、その上でも何不自由無く育ててもらった自覚のある僕は、養父母が好きだった。だから、養父が破滅していくのを黙って見ている訳にはいかなかったのだ。
僕は養父母に黙ってその男と連絡を取って、人気の多いカフェに呼び出し、こう告げた。
「父の会社を助けてください。助けてくれたら、僕を差し上げます。但し、体の関係は...20歳になるまでは、待ってくれませんか」
「20歳?」
「その方が、お互いの為だと思います。それさえ守ってくれたら、僕は20歳になったその日から貴方の望む事、何でもします」
僕はそう言って、男に小さく頭を下げた。
そのカフェは、中一の頃まで週2で通っていた、隣町の英語教室の近くの店だ。近隣には他のお稽古事の教室や塾、大学などもあり、客には学生だけでなく、子供の送迎待ちの間にお喋りに花を咲かせる母親達も多い。僕も、そこで待つ母との待ち合わせで入った事が何度もあり、その様子を覚えていた。だからこそ、この店を選んだのだ。当時の僕にできる、精一杯の自己防衛。
そんな店内の、一番奥の席。近くの座席の会話ですら、はっきりとは聞こえて来ないほどのざわめき。それはつまり、こちらの会話もそうであるという事だ。
聞かれたくない話は聞かれず、されど人目がある故に、男は僕に手出しは出来ない。
子供ながらにそう計算した上で、切り出した話だった。そして、僕のその目論見は、とりあえずは成功した。
「...何でもかい?」
大人しくコーヒー啜っていた男が、僕の言葉に視線を上げる。店内の状況を知って興醒めしたような顔をしていたのに、いきなり目を光らせている。蛇が睨んできたようなその視線に、悪寒で鳥肌が立った。恐怖で上手く唾を飲み込めない。
それでも何とか取り直し、答えた。
「はい、何でも」
「それは…僕の愛人になる了承だと思って良いのかな?」
「...はい」
男は、制服を着た僕の、頭から靴の先までを舐め回すように見て、にやりといやらしく笑った。そして、煙草焼けしたような色の悪い唇を歪ませて、気色悪い事を口にした。
「ふうん、そっか。息子と同じその制服を脱がせる背徳感を味わえると期待してたのにな。だけどまあ、仕方ないか。今はそれは諦めるよ。警察に駆け込まれても面倒だしね」
「...」
「気は長い方だから、せいぜい楽しみに待つとするよ。その代わり、その後は飽きるまで愉しませてもらおう」
「...はい」
信じられなかった。これが、僕と同じ年齢の息子を持つ親の言葉なのだろうか。
拙いながらも頭を使い、場所を指定しての交渉に至らなければ、この男はそう遠くない内にどこかで僕を犯す気だったのだ。
その事実に、吐き気がした。
人生で初めて、人間の醜悪さを目の当たりにした日。平静を装っても鳥肌はおさまらず、震える唇を噛み締めながら、こんな父親を持った友人を本当に哀れだと思った。
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