夜空に赤い風船

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ーーーー  緒方一郎様へ  あなたからの手紙、実を言いますと、先に読んだのは農作業から戻りポストを開いた母です。宛名の記載がなかったので、誰に宛てた手紙か分からなかったのです。でも、赤い風船で、この手紙は、あなたが私に宛てた手紙だと分かりました。  正直に打ち明けますと、私とあなたは毎朝、すれ違っております。黒い学生服の集団の真ん中で、私はあなたの笑顔とすれ違ってまいりました。  夏祭りの夜、肩がぶつかり夜空に赤い風船が飛んだことを、私は神に感謝致しました。なぜかと申しますと、あなたの視界が初めて私を映したからであります。お恥ずかしい話、あなたが私を知るより前に、私はあなたを見染めておりました。私の名は三浦初音と申します。 ーーーー 「そっか、先に一郎さんに片想いしてたのは、お婆ちゃんだったんだ」 私は呟きながら次の手紙を手に取った。段々と手紙のやり取りが頻繁になってゆく。  この丘で二人が愛を語り仲を深めていく様子が、私の胸をシクシクと泣かせる。それは、この恋愛が非恋に終わっていると知っているからこその痛みだった。  最後から二通目の手紙には、こう書かれていた。 ーーーー  御結婚、おめでとうございます。例え毎夜、涙で枕を濡らそうと、私はあなたの幸せを願います。でもどうか浅い眠りに、あなたの夢を映す私のことだけは許して下さい。夢の中だけでも、私はあなたに抱かれていたいのでございます。年浅はかなる私ですが、あなたを慕う心だけは生涯、続くでしょうから。夢の夜空に飛ぶ赤い風船と共に……。 ーーーー 「お婆ちゃん……」  涙が溢れて止まらない。私は胸に便箋を抱いた。 「大丈夫?」  隣から圭人の声。私は滲む視界に彼を映した。 「一郎さんって、どんな人だった?」 「真面目で無口で無愛想。でも、家族には優しい人だったよ」 「奥さんにも?」 「うん、大切にしてた。だから、この手紙を読んで、ちょっとショックだったかな」 「そっか。お婆ちゃんも同じだったよ。お爺ちゃんと凄く仲良しだったから、私も驚いた」 「でも、この最後の手紙……」  圭人は便箋に目を落とす。 「まさか、何もかも捨てて初音さんと逃げようとしてたなんて……」 「うん」  私は頷き、最後の手紙を開いた。そこには短い文字が並んでいる。 ーーーー  もう、あなたを愛しておりません。コスモスの丘には二度と行きません。どうか奥様とお幸せに。 ーーーー 圭人が言った。 「きっと、初音さんの気持ちはお爺ちゃんから離れたんだよね。だから今があるわけだ」 「違うよ」  私は肩掛けのショルダーバッグからシワシワになった便箋を取り出し彼に手渡した。圭人は手紙を読むなり瞳を丸くさせる。 「これって!」 「多分、この手紙を書いて、お婆ちゃんは便箋をくしゃくしゃに丸めた。で、嘘つきな手紙を一郎さんに送ったんだよ」 「なんでだろう?」 「分かんない」  暫くの沈黙。圭人はいきなり立ち上がった。 「あーモヤモヤいする!お婆ちゃんに聞いてみよう」 「お婆さん、生きてるの?」 「うん、確か今年で八十五歳。ぴんぴんして元気だよ」 「いや、でも、お婆さんに聞くのは気がひけるよ。だって一郎さんの妻だし」 「んー、でもさぁ〜」  圭人は腕を組んだ。 「もう二人はいないんだし時効じゃない?」  尻の埃をパンパン叩きながら立ち上がる私。 「時効かなぁ?」 「うん、僕はそう思う。それに知りたくない?なぜ、お婆さんが嘘の手紙をお爺ちゃんに送ったかさ」 「それは、お婆ちゃんがそう思ったからじゃない?それに、奥さんはこのことを知らないと思うよ」 「それはない。お婆ちゃんは手紙の存在を知ってたよ。遺品整理で僕に手紙の束を見せたのお婆ちゃんだもん」 「えっ、本当?」 「うん」  その後、圭人に連れられ、私は武家屋敷みたいな緒方家の門を潜ることになる。お婆さんの名前は、ツタさん。テーブル向こうのツタさんは亡き夫の手紙を読み終えてから顔を上げた。  出されたグラスの中で氷がカランと鳴る。麦茶が氷を溶かしたのだ。ツタさんは開口一番にこう言った。 「初音さんと主人のことは、だいぶ前から知っていました。狭い町ですから噂はすぐに広まります。手紙を見つけた時も、やっぱり、そう思いました」  庭の獅子脅しがカンッと甲高い音をたて、晴天を突く。ピチャンッと水音。池の鯉が跳ねた。スダレで見えなかったけど、そう予想した。鼓膜を突んざく蝉の鳴き声の中に、仲間外れなツタさんのシワがれた声が混じる。 「主人が、初音さんとかけおちを考えていると手紙を盗み読んで知り、わたくしは初音さんに会いに行ったのです。そして嘘を吐きました」 「嘘……ですか?」 「はい、腹に子がいると嘘を吐きました」 「嘘ってことは、妊娠はしていなかったのですね?」 「はい、あの時点、主人はわたくしに指一本たりとも触れておりませんでしたから」 「結婚したのに、ですか?」 「そうです。わたくし達の結婚は互いの意思ではなく親が決めたもの。ゆえに愛なんて戯言は存在しなかった。でも、縁あり結ばれたからには夫と添い遂げるのが妻になった者の勤め。家を捨てるなど世を捨てると同じこと。妻の立場としては、こうするより他に手段がなかったのです」 「時代かぁ〜」  横にあぐら姿勢で座る圭人が、背後に手をつき天井を見上げた。 「最後の手紙により初音さんに見切りをつけたのか、その後、主人とわたくしは仲睦まじい夫婦になりました。申し訳なく思いますが、全ては初音さんのおかげです」  ツタさんの言葉に被せるようにリンッと風鈴が鳴った。今の時代なら、きっと二人は迷いなく結ばれていただろう、と思う。  私はツタさんに祖母が書いた本当の手紙は見せなかった。それはツタさんが嘘を吐いたからだ。彼女は一郎さんを愛していたに違いないと思う。時効だとしても、これ以上、傷つける必要はないと判断した。  駅まで送ってくれた圭人と別れる時、私は彼とまた会う約束を交わした。季節は秋、場所は、薄紅のコスモスが咲く丘。  秋の虫が奏でる鳴き声が鼓膜を優しく撫でる。私はコスモスの丘に立ち、糸に祖母の手紙を結んだ。 「準備はいい?」  圭人も糸を持っている。 「OK」  二人一緒に「せーの!」と声をあげ、糸を手放した。  澄み渡る空気。田舎の夜空は満点の星が輝く賑やかな夜祭りのようだった。その中に、赤い風船が二個、糸と糸が絡まるぐらいにくっついて飛んでゆく。  私達は、老いて亡くした今を飛ばしたのではない。あの頃の若き日の二人を夜空に飛ばしてやりたかった。 だって空は自由だから。その中でこそ、祖母は【必ず行きます】の手紙をポストに投函できるのだから。  どうか届いて欲しい。きっと届くはず。だって、二人は偶然ではなく必然で同じ日に世を旅立ったんだもの。  駅へと続く帰り道、圭人はふっと呟いた。 「黒髪、夏は肩先で跳ねてたのに伸びたね」 「あー、そっかなぁ」 「LINEで初音さんの若い時の写真見せてくれたけど、君にそっくりだった」 「それ、家族みんなに言われる」 「綺麗だと思ったよ、初音さん」 私は隣を歩く圭人に視線を流す。 「私にも一郎さんの若い頃の写真を見せてくれたじゃない?」 「うん」 「圭人にそっくりだと思ったよ」 「それ、家族みんなに言われる」 「イケメンだと思った。一郎さん」  聞こえるのは二人の靴音だけ。ちょっと気恥ずかしい沈黙が続く。すると圭人が言った。 「あのさ、決めたことがあるんだ」 「なに?」 「大学を卒業したら東京で就職しようと思ってる」 「えっ?マジ?」 「大真面目」 「だってアナタ緒方家の長男で跡取りでしょ?両親が反対するんじゃない?」 「反対されても行くよ。だって僕の人生は僕のモノで自由だから」 「自由か、そうだね。今はそれが許される時代だもんね」  改札口のこちらとあちら側。 「どうして東京なの?」と、尋ねる私に「それ、聞く?」と苦笑いの圭人。 「じゃあ、またね」と手を振り彼に背を向けた。私の頬が赤い風船みたいだったことは内緒。でも、バレてまうのは時間の問題だ。  だって、私は来月も祖母を理由にコスモスの丘に行こうとしてるから。  この胸の赤い風船、私はいつか圭人に飛ばすだろう。だって今は令和。令和は自由の空が広がる世界なんだから。 「ね、お婆ちゃん」  私は電車の窓に祖母を浮かべて微笑んでみせる。思い出の祖母の笑顔はいつも優しく微笑み返してくれた。  だが、次の瞬間、私の中に生前の祖母から聞いた衝撃の言葉が蘇る。そう、あれは高三の夏休み、祖母は突然、私に暴露したのだ。 『もう時効だから言うけど、お前の両親、不倫からの泥沼婚な』  そう言って笑った祖母。ちょっと待って、お婆ちゃん、今、純愛に酔ってるとこだから邪魔しないで。  どちらかと言うと毒舌だった祖母。その毒舌は私にも立派に遺伝している。  祖父は祖母の毒舌に耐えられるほど温和だった。だから夫婦は末長く添い遂げられたのだ。まさに神様がくれたパズルのピースがピッタリはまる縁。きっと緒方夫妻もそうだろうな。現実は甘くない。  圭人の赤い風船。どうか遺伝の毒舌を受け止めてくれるほど温和でありますように。と、私は令和の神様に願わずにはいられない。  
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