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case1 山之内絹江の場合
私は世田谷区の高齢者施設にいる。
夫は数年前に亡くなった。
私は子供や孫に恵まれ幸せな人生かもしれない。
夫は優しかった。だけど私が夫を愛する事はなかった。
私は夫と結婚する前に愛し合い将来の約束をした方がいた。
彼の名は『井川助次郎さん』
私が通っていた女学校の近くに住んでいて大学講師として働いていた方。
彼と将来の約束をしてお互いの家族に紹介しよう。そんな話しが出てきてすぐ私に縁談が持ち込まれた。
『鉄道会社を経営する山之内家の次男』との縁談。山之内の次男で鉄道会社で働いている和夫は取引会社の下請けの娘でしかない私を何処かで見たらしい。私の両親は乗り気で結婚させようとした。なぜなら傾きかけた会社の立て直しを山之内家が約束したから…。もちろん私との結婚が条件だ。
私は好きな人がいるからと拒んだが『このままでは一家心中するしかない』と言われた。駆け落ちしようとも考えた。だけど娘を身売り同然に嫁がせようとする両親の事は許せなかったがまだ学生だった弟や妹を不幸にはしたくなかった。
私は泣く泣く助次郎さんと別れ山之内家に嫁いだ。ただ…私はどうしても両親が許せなくて弟や妹が独り立ちしたら実家の支援を打ち切って欲しいとお舅さんにお願いした。自分の力で会社を運営しないと意味がないと理由をつけて。
お舅さんもいつまでも支援をするつもりはなかったらしく、両親の会社をある程度立て直したら手を引くつもりだと…私の願いは聞き入れてもらえた。
子供達は大きくなり家庭を持ち忙しくなり…そして夫が亡くなったのを機に私は自分でこの高齢者施設に入居。息子や娘に孫達も時々は会いに来てくれるのが楽しみで面会の日を指折り数えていたわ。遠足が楽しみな子供みたいね。そして5年の月日が流れ少しずつ食欲もなくなりベッドに横になる日が多くなった。
私もそう長くはないのでしょう。
私を山之内家に売ったも同然のあの世の両親
。彼らに恨み言のひとつやふたつ言っても神様は許してくれるかしら。
夏が終わり短い秋を迎える頃夜遅く誰かが部屋の片隅に立っていた。
『もしかしてお迎えがきたのかしら?』
こんな時間に面会者が来るはずもなく誰かが部屋に入ってきた気配もない。
よく見るとマントを羽織りノートを手に持った中学生位の男の子。
最近の死神はずいぶんかわいらしい。
これなら死神も怖くはない。
「坊や…もしかしてお迎えに来てくれたのかしら?」
坊やは首を横に振ると私に近づいた。
ベッドの近くには転倒防止のマットがある。踏んだら音が鳴る仕組み。だけど彼がそのマットを踏んでも音が鳴らない。
彼は人ではない。
『山之内絹江さん貴女が誰か最後に伝えたい言葉はありますか?』
「言葉?遺言なら弁護士に託していますわ」
『いいえ…貴女が思い残す事がないよういまわの言葉を伝えるのが僕の役目です』
私は目を瞑り生涯唯一愛した男性の顔を思い浮かべていた。
少年はノートを開くと『井川助次郎さん』と呟いた。
私が驚いていると少年はにっこりと微笑み。
『彼は生きています』
『大学の教授だった彼はずいぶん教え子に慕われていたみたいですね』
『今は熱海に移住して通いの家政婦を頼み静かに暮らしています』
『それと結婚はしていませんが可愛がっていた甥っ子さんが定期的に様子を見に来ています』
なぜ少年が助次郎さんの事を知っているのか?不思議に思ったが家族の誰にも話したことのない彼の事を知る少年に言葉を託する気持ちになった。
「もしかしたら助次郎さんには恨まれているでしょう…」
「それでも…それでも…」
「私が生涯愛した人は井川助次郎さんだだ1人」
「そう伝えてください」
すると少年の持っていたノートが淡い光を放ち『確かに言葉を受け取りました』『僕が責任持って届けます』
そう言って彼はノートを肩掛け鞄にそっと仕舞っていた。
私は彼にもう一つ頼みたい事を思いつき枕元の引き出しを開け小さな箱を取り出した。
「坊やにもう一つお願いがあります」
『何でしょうか?』
私は小箱を少年に差し出すとこれを助次郎さんに届けて欲しいとお願いをした。
だけど彼は首を横に振り…。
『申し訳ありません。僕は肉体を持たないので物は運べません』
『僕が届けられるのは貴女の言葉と気持ちだけです』
残念だわ…。
私は少年にこの箱の中身は助次郎さんから送られた赤い石の指輪だと話した。少年は絹江さんが今でも指輪を大切にしている事も伝えると約束し…霧のように私の前から消えていった。
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