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私は長年大学に勤めていたが退任し熱海に小さな家を買って移り住んだ。
生涯独身だったためコツコツと貯めた金と年金で生活には困らない。
一通りの家事はこなせるが年を取り何かと億劫になり、通いの家政婦を頼んでいるがよく気が利くので助かっている。
私にはかつて愛し合い将来を誓った女性がいた。
彼女の名は【築島絹江さん】
私が若い頃住んでいた下宿の近くにある女学校に通っていたかわいくも芯の強い女性。
私と絹江さんはある偶然が重なりお付き合いするようになった。彼女の女学校卒業後に結婚しようと互いの両親への挨拶を計画していたが…ある日突然別れを切り出された。訳がわからず彼女に別れの理由を聞いたが彼女は涙を流し「愛しているのは助次郎さん…それは変わりないの」それ以上は何も聞けなかった。
その後風の噂で彼女が鉄道会社の御曹司と結婚したと聞き絶望し酒の量が増えた。
職場である大学と自宅を往復する日々。
そんなある日私と絹江さんとの関係を知っていた親友が下宿を訪ねてきた。
親友の叔父は絹江さんの父親が経営する会社と取り引きがあり叔父さんから聞いたという『ある話』を教えてくれた。
築島家の長女は親の会社の経営不振の尻拭いのため身売り同然に嫁がされた。
しかも結婚を拒む娘に「このままでは弟や妹を巻き添えに心中するしかない」と弟や妹の命を盾に実の親に脅されたと。
『愛しているのは助次郎さんだけ…それは変わりないの』
彼女の最後の言葉が頭をよぎった。
私はすぐに神奈川の大学で講師の仕事を見つけ移り住んだ。東京にいると絹江さんの話しがいやでも耳に入ると思ったから…。私は絹江さんを連れ去る勇気もなく逃げただけの情けない男。
それから何度か見合いをしたが絹江さんを忘れられず私は独身を貫いた。
そして仕事に打ち込み教授となり教え子と接する事だけが生き甲斐な人生。やがて大学の学長となったが80を過ぎ隠居を決めた。熱海に移り住んでからも甥っ子や教え子が訪ねてくれ酒を酌み交わすのがささやかな楽しみだ。
90も半ばとなり熱海の山から海を眺める日々。絹江さんとみたかった。私は独りで長く生き過ぎた。
もしかしたら絹江さんはこの世にいないかもしれない…。
今日は家政婦さんが来ない日…朝起きたら庭の草花に水をやり朝食を用意する。
昔は朝食は炊きたてご飯に焼き魚だったが年を取り面倒になり朝はもっぱらトーストとコーヒーだ。熱海の商店街にある自家焙煎のコーヒー豆を定期的に取り寄せている。
朝食を取りリビングのソファに座り本を読んでいると周りが急に静かに…。
風の音も消えた…。
天気の急変か?
…いや…まるで時間が止まったみたいだ…。
リビングに人の気配…。
甥っ子や教え子が来る予定はない。
ホームセキュリティは機能しているはずだ。
私は気配がする方向を見るとマントを羽織った少年が立っていた。
いつの間に…。
ドアを開く音すら聞こえなかったはず。
なにかの間違いか?
彼にはあるはずの影がない…。
「君は何者なんだい?」
『僕ですか?』
『僕はいまわの言葉の伝達人です』
「いまわの言葉の伝達人?」
『はい…【いまわの言葉の届け人】と呼ばれる事もあります。僕は山之内絹江さん…いいえ築島絹江さんからの依頼で人生最後の言葉を届けるために来ました』
「人…生…さ…いご…だと…」
私には不思議に満ちた彼が嘘をついているように見えなかった。
彼は肩掛け鞄からノートを取り出し開く。
『井川助次郎さん…もしかしたら恨まれているでしょう…』
『それでも…それでも…』
『私が生涯愛したのは井川助次郎さんただ1人…』
彼はノートを閉じると…。
『これが絹江さんからの言葉です』
『それと井川助次郎さんから贈られた赤い石の指輪を今でも大切にしていますよ』
赤い石の指輪…あの時の…。
あの時は講師になったばかりで余裕もなくアレが精一杯だった…。
指輪なら山之内家にいれば不自由しなかっただろうに…。
私は年甲斐もなく涙が溢れた…。
私も…私も…絹江さんに何かを伝えたい。
これは神様がくれた最後のチャンスだ。
「少年よ…私の言葉も絹江さんに届けてもらえるのかい?」
少年は頷きノートをそっと撫でた。
『私も絹江さんをあの時と変わらず愛しています』
『来世で会いましょう』
少年の持っていたノートが淡く光る。
生きていればいろんな出来事があるものだ。
『井川助次郎さんの言葉を受け取りました』
『僕が責任持って絹江さんに届けます』
少年がノートを鞄に仕舞おうとしたので私はそれを止めた。
そして絹江さんが刺繍をしてくれたハンカチーフを棺に入れるよう甥っ子に託している事を話した。
少年は微笑むとそれも絹江さんに伝えると言い残し…霞のように私の前から消えていった…。
私は夢を見ているのか?
だが…少年が消えてから止まったと思っていた時が再び動きはじめるのを感じた。
少年はどこの誰なのか?
私はそれすら知らない。
もしかしたら2人の恋を哀れんだ神様からの使いかもしれない…。
そう思う事にした。
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