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ピーーンポーン。
きっと来訪があることがわかっていても慣れないその電子音を、すみれは先ほどから事前予告なく、三回は鳴らしている。インターホンの窪みに三秒、人差し指を押しつけては放す。一回一回が長いチャイムの音はドアを超えて外まで響く。おそらく、物も少ない一人暮らしのワンルームにはかなり反響しているはずだ。一見、檜のような大木である彼にどこまで響くかわからない。開かぬなら吉良邸への討ち入りよろしく、すみれは押しこむつもりでいる。鍵はすでに入手しているのだ。
*
月曜日、午前八時四十五分。中央掲示板の前で雄大と会えない。そんな違和感からすみれの一週間は始まった。週の始まり、学生ならば必ずチェックするその場所に、すみれの彼氏は現れなかったのである。火曜日、空き教室で一緒にとるはずのランチも、忙しいという理由で断られた。極め付けは水曜日、三限の中国語。三年生となり、学部の違う二人が唯一被る一般教養。授業という名目の学業デートにも雄大は現れなかった。ここで、はっきりとすみれの心に危険信号が灯る。大柄な姿に似合わず、いつもまめに連絡をくれるメッセージアプリも、すみれの送ったメッセージの時間が記されたまま、一日経っても既読すらつかない。
真面目な雄大が授業をサボるなど今までなかった。それがすみれと一緒の授業なら尚更だ。雄大と同じ学部であり、すみれとも交友ある隧道サークルの友人に尋ねてみたが、しばらく休みをとるといったまま、何も知らされていないという。すみれの所属する小規模コミュニティ内で必死に行方を追うも、返ってくる返事は芳しくない。そして最終手段、すみれは自身の小さな世界を飛び出し、華やかな絵面でお馴染み、国際経営学部にいる雄大の親友に会いに行くことにした。
*
目的の彼、すみれの十メートル先にいる九州男は、頭の色、姿がピカピカと光る星々の中で、さらに眩いベテルギウスのように輝いていた。春の花はいつも自らを優しくおおってくれる大木に甘やかされ、強い光りには慣れていない。しかし、今はその大木の安否に関わる。半分ほどの距離に近づき、軽く息を吸い込んで声をかける。
「すみません」
宙に放たれたのは、すみれが思い描いたより、小さな声だった。九州男を囲む友人たちの賑やかなガードは堅く、すみれの呼びかけに彼は気づかない。もう一度と、すみれは腹に力を込める。
「すみません」
調整が思いのほかうまくいかず、今度は思ったより大きな声が出てしまった。目的の彼だけでなく、道を行き交う数人も何事かと目を向ける。恥ずかしくなって俯くすみれに、輪の中心にいた男が声をかける。
「あれー。すみれちゃんやん」
溌剌とした声。ヘアカラーキャップで染めたであろうメッシュ頭の九州男は、重力のまま、顔を斜め四十五度に傾け近づいてくる。
ダボついたスカジャンをオーバーサイズに着ているこの男は、水色のサングラスもあいまり、怪しさ満点。だが、見かけによらず優しい。初対面の時、九州男という名前に、じゃあ九州女という名もいるのかと、雄大に隠れて真剣に聞いたすみれにも、
『俺は知らんけどおるかもしれんね』
と爆笑しながら答えてくれた。水と油。寡黙な雄大とどうして親友なのだろうと思っていたすみれも、その出来事をきっかけにして、何となく彼らの関係性が腑に落ちた。それでもすみれは、舌につけたピアスが見え隠れするよう笑うこの男が苦手だ。
「どうしたん?」
ヘラヘラと笑う彼と目を合わせることができず、視線を下げるすみれの視界に、不穏なものが入ってくる。
農学部が研究の一環として作った新種のくだものを、食物学科で商品開発し、購買で限定販売しているオリジナルゼリー。それが九州男の腕。撓んだ洋服とともに引っかかる袋に、ありったけ入っていたのだ。
確か、彼を初めて学食で雄大に紹介されたとき、甘いものが苦手だといってブラックコーヒーを飲んでいなかったか。さらに袋の底、己の存在を主張するよう迫り出したスポーツドリンク。そして、彼の親友の安否不明。これだけの材料が揃えばすみれには十分だった。
「……」
すみれの不穏な視線を感じたのか、九州男は自分が持っていたものに気づき、慌てて袋ごと手を後ろに回す。
形勢逆転。疑念は確信へと変わる。すみれがまんまるの瞳を半分にして見つめると、九州男の瞳孔が細い目に沿って右へと流れていく。
「大ちゃん具合悪いんですか?」
すみれは小さな体の背後に凶暴なクマを宿らせる。
「具合、悪いんですか……」
確信を持って、ゆっくりと躙り寄るすみれに、後ずさる九州男。はたから見れば、百五十にも満たない童顔の女と、百七十のいかにもな男が対峙している様は、どうしたって男の方が有利だ。しかし、とうの本人たちの目には、女はヒグマに、男はオコジョになって映っている。無言の威嚇に耐えきれなくなった小動物は、渾身の合鍵を差し出した。
こうして、すみれは雄大の部屋の鍵を手に入れ、彼の部屋のインターホンを鳴らしたのである。
*
ピーンポーン
――五回目の長いチャイムを押し終え、なんの反応もない現状に、そろそろ右ポケットにしのばせた鍵を使おうか、とすみれが、本気で思案し始めた頃。ついに獲物は目覚めたのか、のしのしと床の軋む音が部屋の奥から聞こえてくる。
「……うるっせえ」
開かれたドアとともに海底を這うような声が漏れ出てくる。中からゆっくり姿を現したのは、冬眠をたたき起こされたグリーズリー。……ではない。上下黒のスエットに、どこぞの前衛アートだという寝癖を宿したすみれの彼氏である。
「ドアの取手にかけとけってゆったやろーが……」
下を向き、怠そうにしている彼は、すみれの存在を認識していないのだろう。すみれが普段聴くよりもいくらか低い声で、すみれの聞いたことのない乱暴な言葉を吐いた。
すみれが瞬きをぱちくりしていると、視線をあげた彼は、暴れ散らかしている髪の隙間を縫って、ようやくその瞳にすみれの姿を捉える。その瞬間、雄大はパキリと音がするくらいにフリーズし、切長の目だけをポロリと落としそうなくらいに見開いた。一拍おき、雄大はたった今吐いた言葉を後悔するよう、真っ黒なマスクをした口を手で押さえる。
ビスクドールのような黒目がちの瞳をまんまるにしたすみれと、気まずそうに視線を泳がせる雄大。先に口を開いたのは、短い脳内会議を終えた雄大だった。戸惑いを滲ませつつ、
「どうした?」
と先ほどの口調から一転、すみれの全てを包み込むような穏やかな口調で尋ねてくる。どうした?はこちらのセリフだとすみれは雄大を睨みつける。
「これ」
小さな白い手を突き出すようにして差し出したのは大きな袋。雄大の好物である購買のゼリーがパンパンに入った袋が二つ。一つには、てんでばらばらの果物ゼリーとスポーツドリンクが、もう一つには柑橘ゼリーだけが溢れんばかりに入っていた。
「ああ、ありがとう」
すみれの存在に躊躇いながらも、雄大はその小さな手にも持たすには不釣り合いの袋を下からすくうようにかすめ取った。その一連の仕草にすみれは幼い頃、シールを貼ってもらった二リットルのペットボトルを運ぼうとして、母に取り上げられた出来事を思い出す。
今の雄大の状況は、誰からどう見ても具合の悪い人。なのにこんなときまですみれに心を配ろうとする。
すみれはこの三日、あちらこちらに散らばってきたもやもやを胸の中の炉で燃やした。そうして生まれたエネルギーでもって、雄大を部屋へと押し戻す。そしてちゃっかり、自分も続けて部屋に入った。雄大は先ほどから珍しいほどに言葉少ななすみれの様子に当惑し、いつもならばすみれの体では到底敵わない巨体も容易にセミダブルのベットへと押しやることができた。
あたりを見回すと、テーブルにはおそらく九州男が差し入れたであろうゼリーとスポーツ飲料の殻が散乱していた。部屋にはベット、テレビ、リビングテーブルにソファがわりのビーズクッション。めぼしい家具はそれくらいで、唯一物件選びでこだわったという天井の高さに、ものが少ないからか、積み上げられたそれらが余計にすみれの目にとまる。
「熱は?」
帰ってくる返事は何となくわかっているし、スウェット越しに感じた彼は熱かった。が、すみれは何でも入っていると評判の自身のリュックをあさりつつ、雄大に尋ねてみる。
「測ってない」
測ってないのではなく、きっと測れない。この部屋にそんなものが存在しているとすみれも思っていない。すみれも片手で数えるほどではあるが、この部屋を訪れたことはある。しかし、可愛い小物で溢れんばかりのすみれの部屋が、物が多い方だとしても、明らかに雄大の部屋は物が少なすぎる。ミニマリストとかいう次元を超えていて、わざわざすみれがくるから買い足したという、千円もしない淡いペパーミントのマグカップが、黒一色のリビングテーブルにのっているだけで、高貴な青磁の器にみえて仕方なかった。
すみれはリュックの底からひっぱりだした体温計を雄大の口に突っ込んだ。雄大は子どものような扱いにすこし顔を歪めたが、知ったことではない。スウェットをひん剥いて、脇につっこんでもよかったのだ。口で済んだだけでもありがたいと思えとすみれは心で毒を吐く。
「三十九度一分」
一分もたたずして、その温度を叩き出した体温計に、すみれの顔中のシワが眉間に大集合した。すみれはまたしてもリュックをガサゴソとあさり、取り出した銀袋の中身をあける。熱さましのシートをおでこに貼り付けると、事前予告なしの所業に雄大の大きな体が、タイの最後の足掻きのようにビクッと跳ねた。それにすみれは少し溜飲を下げる。が、やはりどうしても気持ちは晴れない。すぐに病人に対してそう思ってしまった自分が嫌になる。
「……どうしていってくれなかったの」
心の中にある言葉が渦巻いて、結局声になったのはそんな一言。こんなことを言いたいわけじゃない。大丈夫か。何か欲しいものはないか。心配する言葉は頭を回るのに、すみれの口から漏れたのはそんな小言。
「ごめん」
ダルそうに、熱冷ましの上に手をやる雄大の表情は伺うことができない。
「……」
時計の秒針の音と雄大の吐く息が規則正しく響く部屋。ここに腰を落ち着ければ、スパイ映画のエージェントよろしく、具合の悪い雄大をもっと攻めてしまいそうで。すみれは
「キッチン借りるね、おかゆ食べられる?」
そう早口で告げると雄大の返事を待たずに、右足を立てた。
*
台所は、男性の一人暮らしとイメージするほどに散らかってはいなかったけれど、前訪れた時には見られなかった食べっぱなしのゴミがぽつぽつと落ちていた。弁当の殻が入った袋を見つけ、他のゴミをまとめて突っ込む。すみれの目にはたと入ったのは、きなこっぽい粉が残ったプラケース。パッケージには『やせうま』の文字。初めて聞く四文字の組み合わせに、すみれのあたまに肋骨の浮き出た馬がプルプルと立つ姿が浮かぶ。パッケージを裏返してみれば、砂糖、小麦粉、きなこ、団子のような成分表がならぶあたり、食べ物だろうと思う。しかしまったく、タイトルと素材で実物を想像できない。スマホで調べようとするも、頼りになる相棒はリュックにしまったままだと気づく。東京で聞いたことのないものをわざわざ買って食べるあたり好物なのだろうかと思う。すみれは胡麻豆腐をいれるような少し膨らんだプラケースを一瞥すると、軽く潰してゴミ袋にいれた。
キッチンを軽く整え、お粥を炊くため、米のありかを探す。たしか前に米は定期的に実家から送られてくると聞いたことがある。備蓄はあるはずだ。しかし、白米からお粥を炊くのは時間がかかる。雑炊にしようと思い、一縷の望みをかけてすみれは冷蔵庫を開いた。
すると、冷凍室の一段目、ラップを適当に撒いたせいで一部が凍傷を起こしている冷凍ご飯を発見、救出した。その隣には製氷ケースもある。熱さましのシートを貼ったが、氷嚢袋も作った方がよいかと思い、すみれはタッパーのような蓋をあけた。しかしそれは家庭の冷蔵庫にありがちな不純物がまざり白く濁っている氷ではない。うすく黄味がかってところどころ柑橘の種らしきものが入っていた。彼は一体何を凍らせているのだと、すみれの頭で栽培している「はてな」がもやし以上に急成長をとげる。もう一段引き出しを開ければ、スーパーで売ってあるような小さな固形の氷が袋で買ってあって、すみれはそれを氷嚢袋にした。
少しばかりチンした米と水を炊き、とろみが出てきたのを確認して、すみれは味付けに頭をひねる。お粥ならば塩でいいのだろうけれど、これは生米から作ったものではない。一度冷凍したご飯を使用している。独特の臭みがあるかもしれないと醤油を探す。一口コンロの周りには油と塩胡椒以外の調味料が見当たらず、すみれはもう一度冷蔵庫をのぞく。するとドアポケットの上段に小さな調味料がまとめておかれていた。その中心に赤いキャップの醤油らしきフォルムのボトルを見つけ、つまみだす。小さじ代わりにとキャップに少しだけその液体を移すと、どことなくねばっこいような感触に違和感を覚える。小指で舐めてみればかなり甘い。パッケージを見ると『刺身醤油』の文字に首を捻る。調味料コーナーに今一度目をやれば「うすくち醤油」「こいくち醤油」と醤油と文字のつくものだけでさらにあと、二種類もストックされていた。それぞれ舐めてみれば、やはり若干甘いものの、こいくち醤油がすみれの知っている醤油に近かった。すみれは、それを雑炊にほんの気持ち程度に垂らした。
台所に立つだけで、その人の人となりがわかるという、教授の言葉を身をもって体感したすみれは、少し香ばしい匂いのするおかゆもどきをみつめ、今日一日貯めてきた息を深く吐いた。
――彼はいつも先回りしてすみれのことを思い遣ってくれるのに自分は……。
この部屋に似合わないベビーピンクのビーズクッションだって、カーペットもない部屋にお尻を痛めたすみれを気遣い、雄大が二回目の訪問時に用意してくれていたものだ。ぐつぐつと湯気をたてて水分を飛ばしていく鍋に、すみれ自身の思考も段々と煮詰まっていく。
雄大と出会ったのは、二年前、大学の入学式のことだった。昔からそそっかしく、ドジっ子属性を付与されて生まれてきたのではないかというすみれは、周りからの助言とこれまでの経験測もあいまりとにかく荷物が多かった。
腕に持ったトートバックとは別に背中にまとうリュックには、変えのストッキングに、靴ずれ用の絆創膏。はてはヒールに足が痛くなるかもしれないからと、帰りに履きかえるスニーカーまで。ハンカチも持っているけど、念のためとタオルも二枚入れておいた。配布資料を入れるためのエコバックに関しては、四つも携帯していた。
しかしまあ、えてしてそういうものは大抵学校側が用意してくれたりもするわけで。入学式が終わる頃には、右手に配布資料をいれた紙袋をもち、左肩にトートバッグ、さらに後ろにリュックを背負うという、どこぞの三泊四日の旅行から帰るのだ、という大荷物をすみれは抱えていた。今になって思えば荷物をまとめればよかったのだろうが、その時は緊張と新生活への希望で、すみれの心は当時咲いていた散り際の桜のように、天高くどこまでも舞い上がっていたのだ。
入学式が終わり、新春バーゲンのようにして出口に押しかける人並みに、すみれは結局スニーカーに履き替えることができなかった。すみれの小さな身体は、一斉に立ち上がって帰ろうとする集団に、あっというまに飲み込まれ、慣れないパンプスのまま、明治創立、伝統ある校内の石畳へと流されてしまう。するとやはり必然というべきか、すみれは歪なレンガの溝にヒールをひっかけ、盛大にずっこけた。何とか手にもった紙袋は死守したが、背中のリュックのチャックは甘く、荷物がすみれの頭をこえて飛んでいく。転ぶことに関してプロフェッショナルを自認しているすみれは、やばいと思った瞬間に体をひねり、右腕から地面に着地したことで怪我は免れた。が、入学早々のハプニングに涙目になって、必死に私物をかき集める。
やっとのことで荷物を回収し終えたすみれは、最後とばかりに傍に置いていた紙袋を勢いよく持ち上げる。すると次の瞬間、今度は袋が、その荷重に耐えかね、底がストンと綺麗に抜けてしまった。大量のプリントが、トランプをぶちまけたように雪崩を起こす。あまりにきれいな流れに、一連の動作がスローモーションのように脳内にリプレイされた。三度ほどリピートされた後、すみれの心に降りかかってきたのは、押し入れにパンパンに入れていた荷物が転がり落ちてきたような絶望。心がポキリと折れた音がした。
多く人はいるはずなのに、関わりあいになりたくないのか、周りはすみれを遠巻きにして蜘蛛の子を散らすように逃げていく。すみれだけが世界でそこに残されたような心地がした。入学式に最適な春の澄み晴れ渡っている空が今は憎い。すみれの醜態をそんなスポットライトをあてるみたいに綺麗に照らさないで欲しい。
ぼやけてきた視界に、すみれの心が雨を降らそうとする寸前、やさぐれた願いが天に届いたのか、すみれの視界が急に陰った。
反射的に顔をあげたすみれの前には、いつのまに生えたのか巨木が立っていた。いや、よく見ると人だ。太陽を纏っているからか、逆光で顔はよく見えない。彼はすみれと同じ高さに屈むと黙々と、散らばったプリントを拾ってくれる。ようやく見えた横顔には、甘さなど皆無。スーツを着ているから同じ新入生だろうが、Vシネマに出ていそうな貫禄と鋭い目つきだった。彼は、誰に見られるのも気にすることなく、黙々と周辺の荷物を回収してくれた。すみれの散らしたプリントを手際よくまとめ、軽く整えると、自分の紙袋に入った書類を取り出し、すみれのやぶれかぶれになった袋と取り替えてくれる。
彼はすみれがやっとのことで持っていた書類の束を右手の握力だけで掴み、小脇に抱えると、左手を呆然としていたすみれに差し出してくれる。
「んっ」
大丈夫かと問うのではなく、短く、言葉にもならない音で、すみれを地面から力強く引っこぬいてくれる。すみれはようやく彼と同じ地上に降り立った。
座って見上げた時から思っていたが、彼はやはり大きい。すみれより頭ひとつ、ふたつ高い。見上げるような体躯に、すみれは彼のことをウドの大木だと思った。元来の役立たずという意味ではない。ただ、泰然自若としたその姿に、すみれの頭に最初に浮かんだワードがそれだったのだ。緑を茂らせ、太陽の強い日差しからすみれを守ってくれる。
「王子様みたい」
誰もが思い描く、輝くような王子様が金星であるなら、かれは木星。ただただ大きく、でかく正体不明。しかし、すみれにとってはこの世界に唯一現れた王子様だった。思ったことをそのまま口に出してしまうのはすみれの悪い癖だ。しかし、そんなすみれの一言に、彼は一歩引くでもなく、キョトンとしたかと思うと、しかめっつらを外して、くしゃりとキャベツの中身みたいに、顔のパーツを中心に寄せて笑った。その瞬間、すみれはハートの中心を射抜かれたのだ。
「なんやそれ」
少し変わったイントネーションで、ツボったように肩を振るわせる。彼のそんな姿に十八年お気楽に飛んでいたすみれの心はど真ん中を打ち抜かれ、沼に落とされてしまった。
――それからのすみれの行動は早かった。人見知りではあるが、好きなものには前のめりになって猪突猛進な性格である。同じサークルに入り、小さなリスのような体で大木に体当たりし続けた。そして一年の終わり、朴訥とした木から甘い実を落とすことに成功したのである。
少なくともすみれにとって、とても幸せなお付き合い期間だったと思う。雄大はすみれのドジなところを先回りして、カバーしてくれるような人間だった。雄大と付き合ってすみれはこける回数が確実に減ったし、彼は細い目とは裏腹に、広い視野で細かいところに気を配ってくれる。すみれの話に耳を傾け相槌を打ちながらも、数歩先のわずかな段差を捉えてそっと手を差し出してくれる。マーカーは多く持っているのに、シャーペンをよく無くすみれのために、自分は使わないであろう可愛いクマのキャラクターのシャーペンを小さなペンケースに忍ばせていてくれる。抜けているところが多いすみれにため息を吐くのではなく、すみれがぎりぎりわかるくらいに口元をあげて仕方なさそうに、暖かく笑ってくれる。幸せだった。
でもふと、一年記念日の翌日、お泊まりデートから帰宅した夜。自分の家の布団に潜りこみ、その匂いを鼻いっぱいにかいだ瞬間、すみれは漠然とした不安を覚えた。大好きな彼氏との夢のような時間を過ごした後、良い夢がみれると勢いいさんで布団に入ったものの、眠れない。暗闇に慣れた目にうすらぼんやりとした天井のシミをみつけて、こころがもやもやとしはじめる。
付き合って幸せな日々を送っていたことで、舞い上がっていたが、落ち着いて一歩下がってみれば、自分だけが、雄大に支えられているのではないかと感じてしまった。気になると、とことん考えてしまう性格もあいまり、最近はぼーっとしていることが増えて、それを雄大にカバーしてもらうという悪循環が生まれていた。そんな矢先の今回の出来事。
彼が苦しんでいるのなら、自分が一番に気付きたかった。看病をしたかった。頼られたかった。完成したお粥の粒がだんだんぼやけていく。しかしこんな姿ではもっと頼ってもらえなくなると。すみれはつばを飲んで視界に滲んだものを飲み込んだ。
*
「ああーよだきいー」
もったりとしたお粥を丼によそい、すみれはキッチンから寝室につながる1DKのドアを開けた。すると測ったように気だるげな声があたりに響く。きっと誰に聞かせるつもりでもない、それでもポツリと吐かれた声は、テレビもついていない高い天井の部屋にこだました。
「何、それ」
雄大はすみれの反応に初めて自分の放った言葉が音になっていたのに気付いたのだろう、自分でも驚いたように目を丸くしていた。
放った言葉の意味はわからない。が、きっとニュアンス的に、良い意味ではない。どこかめんどくさそうなそんな言い方。すみれとの時間で雄大が吐いたことのない言葉。きっと今のこの状況では、不安を煽ってしまいそうな言葉。それにすみれは、
「今の方言?」
とお粥の入った器を持ちながら、真顔で、大きな瞳で、雄大を見つめている。
「いや。……うん」
雄大は珍しく慌てている。いつもは、うんじゃなくて、ああとか、おおとか相槌を打つのに。どうにも雄大は取り繕うのが下手で続く言葉が出ない。
「……うれしい」
「へ」
気まずい空気を払拭するような、予想の斜め45度をいくすみれの返答に、雄大は惚けた顔を晒す。
「それって方言だよね」
「ああ」
すみれは雄大に近づくと、身を乗り出し、つぶらな瞳を更にキラキラさせる。
「やっと、素を見せてくれたね」
すみれの声に雄大は目をしばたたかせる。
「大ちゃん、本当は甘いものちょー好きでしょ」
「へ」
おかしな方に話がとぶ。すみれの悪い癖だ。
「柑橘系だけじゃなくて、クリーム系とか、団子系とか好きだよね」
「な、なんで」
変化球。それでもど真ん中を捉えた言葉に雄大は狼狽する。いつもすまして、柑橘系なら甘い物でも食べれるとのたまっているが、すみれの前でそんなもの通用しない。
「心理学専攻なめんなよ」
すみれは、少しドスを入れた声で突つく。
「意外に大ちゃん、結構顔に出やすいよ」
某チェーン、クリームもりもり、期間限定フラペチーノの看板を見る度、くいっと上がるその場所をすみれはつんつんと小さな人差し指でさしてやる。雄大はばっと眉を覆ったが、手もほんのりと赤い。
「ずっと、なんで私の前ではカッコつけるのかなって思ってた。なんか九州男児のプライド的なやつかなと」
ボボボ、と阿蘇の活火山を思わせる勢いで雄大の顔が赤く染まっていく。
ちなみに舌ピアスをつける人間は寂しがりやだとすみれは勝手に思っている。太陽と月。それでもなにかと雄大にかまい、頼られる九州男にすみれは密かに対抗心を燃やしている。だから、すみれは彼が苦手だ。
「多分私を助けてくれるのは、素の部分なんだろうけど」
雄大が生まれてから今までで他者を慈しむために身につけてきた力。これを苦もなくつかう雄大はきっと優しい人だ。しかし、
「私といるとき、ちょくちょく我慢するような仕草をすることがあったから、大丈夫かなと思ってた」
すみれはそういって右手の親指の腹で左の手の甲を掻く仕草をした。それにも雄大は覚えがあった。そして己が今、その動きを現在進行形でしているのだときづく。
すみれの眉を下げるような表情に、雄大は問いかける。
「不安だった?」
「不安というか……」
そうはたと問われれば、不安ではない。自分の胸の内に存在する相手への不満とかではないのだ。ただ、
「心配?なのかな」
すみれが雄大に対して心を配りたいと思うこと。雄大のことを知らなかったという自分への反省ならたくさんここにきて感じさせられた。でも、
「全然、大ちゃんの気持ちとかを疑ったりしたことはないよ」
彼は口以上に、大きな体を目一杯使って、すみれに愛しいという感情を伝えてくれていた。すみれの小さな手を握りつぶさないよう包み込む震える手だったり、三白眼から放たれる眼差しは、直射日光のようにギラついてはいない。午後四時、レースカーテンで遮られた西日のようにやわらかい。巨大な体の細かな部分を使って、愛情を示してくれる彼の思いを決して疑ったりはしていない。
「ただ、やっぱり、どうしても我慢してるんじゃないかって思って心配だった」
それが、彼女の前でのカッコつけ、男のプライド的なものならまだ目を瞑る。でも、
「でもさ、こんなやせ我慢はいやだよ」
「ごめん」
素直に謝る雄大にすみれもそれ以上言葉をかけることができなかった。あたりを沈黙が支配する中、先に口を開いたのは雄大だった。
「お前が王子様見たいってゆったけん」
拗ねたよう吐かれた言葉に、今度はすみれが目を丸くするばんだった。
すみれは右耳から入ってきた言葉を、脳内に留め置き、ゆっくりと噛み砕く。きっと雄大は出会った時のことを言っているのだと思った。
もしかして、いやもしかしなくても雄大はずっとあの言葉に縛られていたのだろうか。だから、弱さを身に封じ込めていた。
その事実にすみれは目から鱗が落ちた。
「違う、違うよ、そうじゃない」
すみれは小さな体をめいっぱい振って否定する。
彼は勘違いしている。確かにあの時、すみれは雄大のことを王子様みたいだと思った。遠巻きにしてみられるすみれを、ただ一人、周りに流されることなく助けてくれた。でもすみれが雄大に惚れたのはそこではない。
「大ちゃん、あんなにスマートに助けてくれたのに、笑った時はめっちゃ子どもっぽく笑うから、そのギャップにやられたというか」
「へ」
今日、よく聞く雄大の間の抜けた「へ」の音に、すみれは母性が刺激されて仕方ない。
「最初はすっごく大きな人って、でもその後王子様見たいって思って、でも怖い顔してるのに、笑うと赤ちゃんが笑うみたいにフニャってなってそこが可愛いって思ったの」
「可愛いって」
すみれのあけすけない言葉に、雄大は、顔を赤らめ悶えていた。しかし雄大はすみれのこういうところが好きだ。雄大は言葉にして愛を囁(ささや)くことが苦手だ。だからすみれのこの性格に救われている。すみれの言葉は雄大に自信をくれる。
――すみれの言葉に雄大がひとしきり悶絶し、ようやく落ち着いたのは、三十分を過ぎた頃。冷たくなった雑炊を温め直そうか、と腰をあげたすみれの腕を雄大がとった。どうしたのかとすみれが首をひねれば、
「猫舌やき」
と雄大は下に視線を向け、つっけんどんにいった。雄大はそのまますみれから椀を受け取り、味噌汁を飲むように直接、椀に口をつけて豪快に流し込む。こうしてどんぶりごと食べることも、すみれを気遣う繊細さもきっとどちらとも素の雄大。
実をいうと雄大が猫舌なことをすみれは知っていた。雄大は冬でも基本的に冷たいものを頼むし、暖かい缶コーヒーを渡した時は、手でコロコロとその熱を逃がしていた。しかし自己申告してくれたことに、雄大の歩み寄りを感じ、すみれは笑う。そんなすみれの様子に、雄大は、
「すみれ、おれの母ちゃんに似ちょん」
とポツリと言葉をこぼす。
「か弱そうで、無邪気なんに、しっかり裏で手綱をにぎっちょん」
ほんとに何気なく、とんでもない爆弾を落としてくるから、すみれは彼が好きだ。だから、雄大の気づかなかった意図をこめてそれを返してやる。
「それってプロポーズ?」
雄大は自身の吐いた言葉の意味を知り、再び顔を真っ赤にする。すみれはそれに「にっこり」と擬音のつきそうな笑顔を返し、先ほどから気に掛かっていた四文字をスマホに打ち込む。
「ふーん、やせうまってお団子を平く伸ばしたやつにきなこをつけた、大分の郷土料理なんだね」
彼の方をみれば、どうしてそれを、と驚いた顔をしている。
「お嫁さんになるなら、覚えなきゃね」
初心な反応をする可愛い九州男児が、すみれは大好きなのだ。
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