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昨夜のお礼①
「……ぅうん?」
翌朝。侑奈はふわふわと浮上しそうな意識で寝返りを打ち、薄く瞼を開いた。すると、窓から差し込む陽の光を強いと感じて腕で目を覆う。
「ちょっと眩しい……って、あれ?」
なんとなく違和感を感じて、しっかりと目を開けてみる。見覚えがある部屋だが、自分の部屋ではなかった。
「ここどこ?」
「おはよう」
(えっ!?)
その声に飛び起きた瞬間、ネクタイを締めている隆文が視界に飛び込んできた。その光景に二、三度瞬きをして、目を擦る。
「え? どうして隆文くんが……」
(もしかして私あのまま寝ちゃったの?)
ハッとしておそるおそる掛け布団を捲ると、服を着ていたのでホッと息をつく。そのとき、隆文の手が伸びてきて脈を測られた。
「大丈夫そうだな。吐き気や頭痛は?」
「ないです……」
「それなら良かった。今日は休みをもらっておいたから、もう少し寝てろ」
気遣わしげに侑奈の頭を撫でてくる隆文に混乱する。
(えっと……昨日は……)
隆文に美味しいお店に連れて行ってもらって、色々話をして……そのあとどうしただろうか。彼の行動や質問から察するに、何かやらかしたのかもしれない。そう思うと、血の気が引いていった。
「わ、私、昨日……何かご迷惑になるようなことを?」
「いや、別に。ただ酔いすぎてすごく吐いてただけかな」
(吐いてた……?)
その言葉が何度も頭の中で繰り返される。
まさか隆文に介抱してもらったというのだろうか。
「あんなにも酒が弱いとは思わなかったよ。もう飲むなよ」
「ごめんなさい……」
侑奈が青ざめていると、隆文が水の入ったペットボトルを渡してくれる。受け取ると、よく冷えていた。
「あの……私もしかして……隆文くんの前で吐いちゃったんですか?」
「ん? ああ。そうだけど、別に気にするな。侑奈の世話ができるのは嬉しかったし」
「ありがとうございます……ちなみにお世話って何を……?」
「口の中が気持ち悪いって言うから歯磨きして、メイク落としとスキンケアかな」
「……」
隆文は何でもないことのように話しているが、侑奈は動揺と羞恥で消えたいくらいだった。が、そんな醜態を晒したのにも関わらず、彼は馬鹿にしたり嗤ったりしないで、心配してくれている。
(最悪……)
自責の年に駆られながら、隆文が先ほど渡してくれたペットボトルを見つめた。
「迷惑かけてごめんなさい」
「何言ってんだ。いずれ結婚するんだから迷惑も何もないだろ」
「け、結婚!? 私……そんなのまだ決めてなっ」
「それは分かってるけど。俺は侑奈しか考えられないから何年でも待つつもりだし、最終的には夫婦になるだろ」
(~~~~っ!)
彼の真剣な眼差しに射貫かれる。侑奈はけたたましい鼓動を誤魔化したくて、話題を変えた。
「そ、そんなことより……昨日のお礼をしたいので何か考えておいてください」
隆文の顔が見られない。
侑奈が視線を彷徨わせながらそう言うと、隆文の顔がぱあっと輝いた。
「え? 何でもいいのか?」
「私にできることなら……。あ、でも婚約とか結婚しようというのはなしですよ」
「それは分かってるよ。じゃあ、呼び捨てで呼んでほしい」
「は? そんなこと?」
あまりにも簡単なお願いに呆気に取られる。侑奈が驚いていると、隆文が「言っとくけど重要なことだからな」と拗ねた表情をした。
(そんなものはお礼にならないわ)
「それはお礼ではないから別のものにしてください。これからは隆文って呼びますから」
「本当か? ありがとう、すごく嬉しいよ」
感動に震えている隆文に、つい笑ってしまう。
(こういうところは可愛げあるのよね)
「何をしてもらおうかな……。あ!」
「え? なんですか?」
「いい。やっぱりやめとく。怒られそうだし……」
いいことを思いついたという顔をしたのに、途端に落ち込んだ表情に変わる隆文に、首を傾げる。
(一体何を頼もうとしたの?)
「怒られそうって……何を思いついたんですか? 気になるので教えてください」
「……ありがとうのキスがほしいなって思っただけ」
(え……)
叱られた子供のように項垂れて、蚊の鳴くような声でそう言った隆文に瞠目する。侑奈の反応にまずいと思ったのか、彼は「嘘。嘘だから」と言って、部屋を飛び出して会社に行った。
「……」
彼の部屋に一人残されて、ベッドにぽすっと倒れ込む。
時間が経てば経つほど、隆文が言った言葉が自分の中に染み込んでいって、もう叫び出しそうだった。
(あ、あ、あの人……何、考えてるの!?)
顔を真っ赤にして、ベッドの上をごろごろと転がる。
「た、隆文って私のこと好きなのよね?」
彼の態度から薄々気づいていたものの、口に出すと変な感じだ。
(なんで? いつから?)
再会して間もないのに早くないかと考えを巡らせる。
そういえば彼は最初から結婚してもいいと言っていた。それに再会当初からとても優しく接してくれている。それは過去の後悔からだと思っていたが……
「……」
しばらく考え込んでいると、枕元に置かれたあの日の子犬のぬいぐるみが目に入る。その瞬間、カァッと顔に熱が上がった。
(ま、まさか、最初から私のこと好きだから虐めてたとか?)
「そういえば、好きになってもらえるように努力するって言っていたものね」
自覚すると心臓がバクバクと激しい音を立てる。侑奈は子犬のぬいぐるみを抱きしめて、しばらく固まってしまった。
(私はどうなんだろう)
優しい人だと思う。気遣ってもくれるし、酔っ払って失態をおかしても呆れたり失望したりせずに、介抱までしてくれる。昔の嫌な気持ちなんて忘れそうなくらい今はいい人だ。
それに昨日だって、侑奈が祖父の物言いに傷ついているのが分かっていたから、わざわざ食事に連れ出してくれたのだ。本当は仕事で疲れているだろうに。
「隆文の言うとおり、いずれは結婚することになるんだろうな」
素直な気持ちがポツリとこぼれる。
今の彼は嫌じゃない。それに祖母と玲子の願いを叶えたいとも思う。
学生時代は勉強中心の生活だったこともあり恋愛なんてしたことがないので、まだそういう感情についてはよく分からないが、そんなものあとからいくらでもついてくるだろう。
「キスくらいしてみてもいいのかしら」
むしろ一度してみて確認するのもいいかもしれない。
結婚するなら当然そういうこともしなきゃいけないだろうし、婚約する前にそういうのが不快じゃない相手なのか確認してみたほうが、後々性の不一致によるすれ違いが防げるのではないだろうか。
(でも急にキスしてもいいとか言うのは、はしたないわよね)
というより、彼の動揺が手に取るように想像できてしまう。めちゃくちゃ喜びもするし心配もしてくれそうだ。
「突拍子すぎるもんね……。でもそれに関してはちゃんと私の考えを伝えて話し合えば大丈夫、かな」
侑奈はぬいぐるみを力強く抱きしめ、決意を固めた。
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