1707人が本棚に入れています
本棚に追加
昨夜のお礼②(隆文視点)
夜遅く家に帰った隆文は自室に入り、腕時計を見て溜息をついた。
(侑奈はもう寝たよな……)
メッセージアプリでやり取りをしたときは話があるから起きて待っていると言っていたが、もうすぐ日付けが変わる。メイドの仕事は朝が早いので、待ってなどいられないだろう。
(一緒に住んでても顔を合わせられる時間って限られてるよな……)
少し寂しくはあるが、今は侑奈がうちでメイドをしているので時間を合わせやすいほうだとは思う。だが、彼女も外で働きはじめたらそうはいかないだろう。
「……いや、待てよ」
またもや漏れ出た溜息と共に違う考えが脳裏をよぎった。
(同じ会社で働けば、一緒に通勤できるし、勤務中に会うこともできるよな……。それに会社へのアクセスの良さを理由に一人暮らしをしてるマンションに彼女を呼ぶことも可能じゃないのか?)
いずれは母体企業である四條製薬の研究所へと考えていたが、隆文が今任せられている開発系の医薬ベンチャーのほうに呼んでも何ら問題はないはずだ。
(……成績証明書や侑奈が書いた論文などを見させてもらったが、とても優秀なようだし、何より頑張り屋だから、下心を抜きにしても欲しい人材だとは思う)
「……ただ、この私情だらけの人事をばあさんが許してくれるかだよな。いやでも、先に私情を挟んで侑奈と取り引きしたのはあの人なんだし、そこを攻めればいけるか?」
祖母を口説き落とす言葉を考えながら、ジャケットを脱ぎネクタイを緩め、ノートパソコンの電源をつける。そして侑奈に関する資料を閲覧しようとしたとき、コンコンと部屋のドアがノックされた。
(……こんな時間に誰だ?)
「どうぞ」
「失礼します……」
「侑奈……。お前、まだ寝てなかったのか?」
「起きて待ってるって言ったじゃないですか」
「そうだけど……。朝早いのに寝ないで平気か?」
ドアから顔を覗かせる侑奈に驚くと、彼女が気まずそうな表情で中に入ってきた。こんな時間まで起きていることが心配なのに、彼女の顔を見るなりどこかホッとしてしまう。
(好きな人って……顔を見るだけで癒しになるんだな。それにパジャマ姿が何とも言えないくらい可愛い)
「大丈夫です。そ、それに今日は隆文のおかげでゆっくり眠れたので、元気なんです」
エヘヘと笑った侑奈に目を見張る。
今朝お願いしたとおり呼び捨てで呼んでくれていることに感動を覚えた。
(すげぇ、嬉しい。今ので疲れが完全に吹き飛んだ)
関係を進展させるためにも呼び方を変えたほうがいいかと思ったが、予想以上に嬉しいものがある。
顔を綻ばせて侑奈を見つめていると、目が合った彼女が眉尻を下げた。それにどうにも表情が固い。
(やっぱり無理しているんじゃ……?)
「侑奈、話は明日にしてもう寝……」
「キスしませんか?」
「は?」
あまりにも突拍子のない言葉が飛び出して、思わず素で聞き返してしまう。
(今キスって言ったか? いや、そんなわけない……聞き違いだ。そうに決まっている)
都合のいい自分の耳を疑っていると、侑奈が再度「昨日のお礼に……キスしませんか?」と言ってくる。その言葉に一瞬時が止まる。
(は……お礼?)
「ちょっと待ってくれ。今朝のことは冗談だって言っただろ。律儀なのか馬鹿なのか知らないが、真面目に受け取るなよ」
「ば、馬鹿!? だって貴方も言ってたじゃないですか。絶対私と結婚するつもりだって。なら、いずれはそういうこともしなきゃいけないだろうから、それならこの機会に相性を試してみたほうがいいと思ったんです。それなのに馬鹿だなんてひどい!」
口が滑った隆文にくわっと目を剥いて反論してくる侑奈に、頭が痛くなってくる。
一応侑奈なりにちゃんと考えたみたいだが、危うすぎて心配になる。
(よく今まで詐欺にあわなかったな……こいつ)
「少し優しくされたくらいで嫌いだった幼馴染みに簡単に絆されるところが馬鹿って言ってるんだよ。チョロすぎだろ」
「……もういいです。分かりました」
隆文が大きく溜息をつくと、侑奈がふいと視線を逸らした。
(やば……)
その侑奈の表情に、言い過ぎたことを悟る。だがそれと同時に、彼女を傷つけてしまったことを焦っている自分と拗ねている表情の可愛さに興奮しそうになっている自分が両方いて嫌になる。
「ごめん。言いすぎたよな? 大体俺がやりたくてやっただけで、お礼なんかする必要ないのに、無理をしてほしくないんだ。頼むから自分を大切にしてくれ」
「無理なんてしてませんし、投げやりになった行動でもありません。あくまで冷静に考えた上での判断です」
「どこかだよ」
(本気で軽くキスするだけですむとでも思ってるのか……? すむわけないだろう。理性飛ばす自信しかねぇよ)
深く口づけて口内を犯し尽くしたい。
口だけじゃない。余すことなく全身にキスしたい。
彼女は隆文の劣情を分かっているのだろうか? いや絶対に分かっていない。分かっていないからこそ、簡単なことのように言えるのだ。
隆文が大きな溜息をつくと、今まで怖い顔をしていた侑奈が突然ふふふと笑い出した。
「真面目で律儀なのは隆文のほうですよ」
「は?」
「昨日のお礼を免罪符に好き放題キスできるのに、そうしなかった。むしろ私のことを思って叱ってくれたんですから、充分真面目かと。ねぇ、隆文。再会してからの貴方が優しい人だというのはよく分かっていますし、とても大切にしてくれているのも分かっています。だからこそ私は……」
侑奈はそこで言葉を切って、隆文にキスをした。それは押しつけるだけの不器用なものだったが、確かに彼女の体温を感じた。
(――っ!)
全身の血液がカァッと熱くなる。そう感じた瞬間、もう止まれなかった。気がついたら噛みつくように彼女の唇を奪っていた。
最初のコメントを投稿しよう!