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隆文のマンション①
「はぁ~っ」
侑奈は窓を拭く手を止めて、大きな溜息をついた。
あの夜、隆文は――侑奈が付き合うことを了承したことに満足したのか、あれ以上何もして来なかった。拍子抜けしてしまったものの、ホッとしたのも事実なのだが……、問題はそれ以降何もしてこないことだ。
いつ来るか……と、この一週間身構えていたというのに彼はおやすみのキスすらして来ない。
(あのあと安心して爆睡しちゃったのがいけなかったのかしら……。そのせいでお子様だと思われたとか?)
いや。もしかすると元々乗り気ではなかったのかもしれない。
「うーん。それは考えられないかな。あんなにも全身で私のこと好きだって言ってるし……」
侑奈はむむっと眉間に皺を寄せて独り言ちた。それと同時に、エプロンのポケットに入れてあるスマートフォンがブルブルと震える。
(ん?)
確認してみると、隆文からメッセージが届いていた。
***
(変じゃないかな……)
隆文から彼の職場の最寄り駅に呼び出された侑奈はソワソワしながらコンパクトミラーを開いた。
「侑奈、お待たせ」
髪を手櫛で整えていると、背後から名前を呼ばれて緩慢な動きで向き直る。
「お仕事お疲れさまです。早かったですね」
「侑奈に会いたかったから速攻で仕事を終わらせてきたんだ」
とても嬉しそうな笑顔を向けられて、危うく心臓を射抜かれそうになる。侑奈はぎゅっと胸元を掴んだ。
(再会してから、ちょいちょい可愛く見えるんだよね。不思議……)
隆文の言うとおり、意地悪だった幼馴染みに優しくされて絆されてしまっているせいだろうか。
そう考えはじめると、彼を可愛いと感じた気持ちが薄れて侑奈は唇を尖らせた。
(どうせ私はチョロい女よ。大体結婚できるかどうかをチェックしに来てるんだからそれの何が悪いのよ……)
早く仲良くなれたほうがいいに決まっているじゃないかと、隆文をジロリと睨むと、彼が満面の笑みで手を繋いできた。
「仕事後に横浜まで呼びつけて悪かったな。迷わなかったか?」
「え? はい。運転手の坂本さんがここまで送ってくれたので、大丈夫でした」
「それは良かった」
「良くありませんよ。最近、休んだり早く上がらせてもらったり……皆さんに迷惑をかけている気がします」
侑奈の契約内容は――隆文の世話を中心に、空いている時間でメイドの仕事をすればいいというものなので、何も気にすることはないと荒井は言うがやはり気にしてしまう。
(世話って言っても、実際は隆文の部屋の掃除くらいしかやることないし……こうして二人の時間を持つのはある意味遊びだし……世話とは言えないわよね)
というか、どちらかといえば世話をされているのは自分のほうだと思う。
「そんなの気にしなくていいよ。侑奈の仕事は俺との仲を深めることだろ」
「それはそうかもしれませんけど……メイドとして入ったからには、やるべきことはしないと……」
「相変わらず真面目だな」
小さく溜息をつくと、隆文がくつくつと笑いながら頭をポンポンしてくる。薄く睨んで、彼の手をやんわりと払った。
「で、どこに行くんですか?」
「俺が住んでるマンションかな。一度侑奈を招いてみたいと思ってたんだ」
「へぇ、それは楽しみですね」
少しぶっきらぼうに訊ねれば、隆文が少年のような笑顔で答えてくれる。その表情に、なんだかむず痒くなった。
(そういえば、本当は会社の近くに住んでいたのよね……)
どんな部屋に住んでいるのか楽しみだなと考えていると、歩いて数分のうちに繁華街の一等地にあるおしゃれなタワーマンションが見えてきた。
(わぁ、すごい。ホテルのエントランスみたい……)
中に入ると素敵なラウンジが目に飛び込んでくる。侑奈がキョロキョロしていると、コンシェルジュが「お帰りなさいませ」と会釈してくれた。
侑奈も同じようにぺこりと頭を下げ、隆文に連れられるままにエレベーターに乗り込む。
「実家を出て暮らすのって、なんだかいいですね。憧れます」
医師である兄は働いている病院の近くで一人暮らしをしているが、侑奈はまだしたことがない。だから、自分だけのお城というのは少し羨ましい。
(でも今回のことで実家を出られたおかげで、色々な経験ができている気がするわ)
ふふふと笑って、隆文を見た。
「侑奈は一人暮らしをしたことがないんだっけ?」
「ええ。結婚前に変な虫がついてはいけないと、おじいさまが心配なさるので……。でも四條のお屋敷で働かせてもらえるようになってから、自由が増えたんですよ。やっぱり一度は実家を出てみないと……」
興奮気味に話していると、隆文が抱きついてくる。突然感じた彼の体温に侑奈の体が大きく揺れると、頭のてっぺんにキスされた。
「侑奈のおじいさんって、頭固いってのもあるけど、侑奈にはかなり過保護だよな」
「はい。大切に想ってくださるのは有り難いんですが、本音を言うと……少し窮屈なこともあります」
久しぶりのスキンシップにドキドキしながらも、苦々しく笑う。
同世代の皆が許されていることが自分には許されない。大学進学だって、兄や祖母、両親が祖父を説得してくれなかったら絶対不可能だった。
(私が愚図なのがいけないんだけど……、それでも信用されていないのはやっぱり寂しいわよね)
「じゃあ今日と明日はここで過ごそうか。週末だし、ちょうどいいと思うんだ。俺の実家とは全然違うだろうし、何より結婚したときのシミュレーションにもなるし、いいと思うんだけど、どうかな?」
「え? それは嬉しいですけど……いいんですか?」
「もちろんだよ。それにそのつもりで、秘書に頼んで食材やレディースのパジャマとか買ってきてもらったんだ。むしろ断られると、昼間の彼の苦労が無駄になる」
(嬉しい!)
マンションは屋敷と違って全部を自分たちでやらなければならない。それを経験できるのは、とても楽しみだ。
隆文の気遣いが嬉しくて、高揚した足取りで玄関をくぐる。すると、オートで電気がつき真っ白なタイルの廊下が出迎えてくれた。
「ここが風呂で、あっちがトイレ。それから、この部屋が書斎ね。どの部屋もだけど、侑奈が入っちゃいけない部屋はないから、好きなように寛いでくれ」
「ありがとうございます」
一つ一つ丁寧に案内してくれる隆文の話を聞きながら、ついてまわる。
そしてリビングに入ると、横浜ベイブリッジが一望できるバルコニーが目に飛び込んできた。
「わぁ、素敵……! 夜景がとても綺麗ですね」
「だろ。俺もそこが気に入ってるんだ」
隆文の無邪気な笑顔に、侑奈もつられて笑顔になる。
リビングはイタリアンモダンでコーディネートされていた。モノトーンやビビットカラーでまとめられたスタイリッシュなデザインのインテリアが、洗練された大人の空間を演出している。
「機能的で無駄がなくて、いいですね」
ダークグレーのソファに赤とオレンジのクッションをコーディネートした色合いがとても好みだ。それにリビングの片面が夜景を一望できるバルコニーにつながっているので、開放的な印象も受ける。侑奈はリビングを眺めながら、つい顔が綻んだ。
(前から思ってたけど、隆文とは趣味が合う気がするなぁ)
「あ、そっちの部屋は一応ゲストルームなんだけど、使ってないから侑奈が使うといいよ。ちなみに隣は俺の寝室ね」
「え? 私のお部屋をもらってもいいんですか?」
「ああ。だからこれからも泊まりにきてよ」
「はい!」
胸を高鳴らせ、リビングに並んだ左側のドアを開く。そこはリビングと打って変わって北欧テイストでまとめられていて、侑奈の心を鷲掴んだ。
(可愛い!)
「侑奈の好きなように変えていいから。今度選びに行こうか?」
「いいえ。このままで充分です。私好みで、めちゃくちゃ気に入りました」
侑奈はソファーに置かれた草花柄のクッションを抱き締め、破顔した。
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