玲子の提案

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玲子の提案

(隆文、また帰って来られないのね……) 「寂しいな……」  メッセージアプリに届いた隆文からの連絡を見て、ぽつりと素直な気持ちが口をつく。  篠原教授と偶然の再会を果たしてから十日。あの日以降、隆文は仕事が忙しいと言ってあまり屋敷のほうに帰って来なくなった。  それでも週末になれば横浜のマンションで一緒に過ごせると楽しみにしていたのに、結局それも中止になってしまった。 (本当に忙しいのかな……)  あのときの教授の態度がすごく悪かったこともあり、その一件で隆文が気分を害したのではないかと不安だ。もしかすると彼を師事する侑奈のことも嫌になってしまったのかもしれない。そう考えるだけで胸の痛みに押し潰されてしまいそうだった。 「侑奈ちゃん、どうしたの?」  涙が一粒こぼれたとき、背後から声をかけられる。振り返ると、玲子が気遣わしげに立っていた。 「玲子さん……」 「貴方、泣いてるの? 一体どうし……」 「隆文に会わせてください!」  玲子の言葉を遮り、彼女の手をぎゅっと握る。突然の要求に、玲子は理解が追いつかないのか驚いた顔をしていた。 (あ……唐突すぎたよね)  気持ちがあふれてしまい、つい望みが先に口から飛び出してしまった。  侑奈は玲子に詫びてから自室に場を移し、十日前にあったことから今に至るまですべて彼女に打ち明けた。話している途中何度か泣きそうになって何度も言葉を詰まらせたが、玲子は静かに聞いてくれていた。そして話し終わったあと、ハンカチを渡してくれる。 「ありがとうございます……」 「隆文ったら何も言っていないのね。あの子は本当に馬鹿なんだから」  ハンカチで目尻に滲む涙を拭いていると、玲子が困ったように笑う。そして今隆文がしていることを教えてくれた。 「実はね、悠斗くんからお願いされて薬の開発中なのよ。随分と焦っているようだから、隆文は数人の研究員の子たちと研究所にこもっているわ」 (本当にお仕事が忙しかったんだ……)  困ったものでしょうと笑う玲子に、侑奈は先ほどまでの愚かな考えを恥じた。隆文はいつだって侑奈のことを考えて大切にしてくれるのに侑奈は寂しい気持ちが勝って、隆文のことを信じきれていなかったのだ。 (私、最低だわ) 「でも嬉しいわ。隆文に会いたいと言って泣いてくれるなんて、少し前では考えられなかったもの。期待してもいいのかしら?」 「はい。私……隆文のこと好きです」  玲子の問いかけにしっかりと自分の気持ちを伝えると、玲子がとても幸せそうに笑い、「ありがとう」と抱きしめてくれた。今度は彼女が涙ぐんでいる。 「侑奈ちゃんの将来の夢につけ込んだ自覚があっただけに、少し心配していたのよ。だけど、少しずつ歩み寄っていく貴方たちを見て、やっぱり間違っていなかったと思ってもいたの。でもその言葉を聞けるのはもう少し先だと思っていたからすごく嬉しいわ」 「私こそチャンスをいただき、ありがとうございます。玲子さんがあの日あの提案をしてくれなかったら、私は未だに隆文を誤解したままでした」  ひしと抱き合い、玲子に何度も礼を伝える。玲子は何度も頭を撫でてくれた。 「侑奈ちゃん、隆文は篠原をライバル視しているだけで、別に侑奈ちゃんがその教授を慕っているからって嫌いになったりはしないわ」 「はい。会えない焦りと寂しさで冷静さを欠いてました。お恥ずかしいです」  侑奈が頭を下げると、玲子が鞄の中から書類を取り出した。なんだろうと覗き込むと、渡してくれる。それを受け取り目を通した途端、息が止まりそうなくらい驚いた。 「これ……」  書類は篠原教授についての調査報告書だった。  そこには教授が不祥事を起こして大学を追放処分となったと書かれている。 (教授が生徒を薬の実験台に? 嘘……)  手が震える。少し変わったところはあったが、それでも生徒に危害を加えるような人ではなかった。調査報告書のようなマッドサイエンティストなどではなかったはずだ。 「それから悠斗くんからお願いされている件がこれね。この毒に効く薬を今開発中なのよ」  クリアファイルに入った薬物の成分分析の結果と神経毒との関連性、そしてそれが媚薬に混ぜられ夜の街に出回っているとの報告書。それらを見て侑奈は目を見張った。 「毒がばら撒かれているんですか!?」 「ええ。そのせいでうちだけじゃなく、都内中の病院もてんてこ舞いよ」 「……」  教授の調査報告書のあとにこれを見せられたということは、もしかすると玲子は教授とこの毒物の件が関係あると考えているのだろうか。  侑奈は眉間に皺を寄せて重く暗い息を吐いている玲子をチラリと見た。 「玲子さんはどうお考えですか?」 「彼を慕っている侑奈ちゃんには悪いけど、おそらく関わっていると思っているわ。K大で篠原が起こした事件の被害者の症状と、今回の事件の被害者の症状は似通っているもの」 「そうですか……」  確かに似ている。違うところは飲酒と性行為の有無だが、直接アルコールや蛋白質を摂取させれば問題ないので、関連性がないと判断する材料にはならないだろう。  おそらく教授は生徒で実験したあと夜の街にばら撒いたのだ。 (どうしてこんなことを……なぜ……)  何が彼をここまで変えたのだろうか。  侑奈がぎゅっと拳を握りしめると、玲子が背中をさすってくれる。 「さらに悲しませることを伝えるのは心苦しいんだけど、この神経毒を無効化する薬を今篠原も開発中らしいわ。だから隆文は焦っているのよ。彼より先につくり出すために」 「そ、それって……」 (自分で毒をばら撒いて、自分で治療しようとしているってこと?)  いかれているという言葉と共に、変な汗があふれてくる。侑奈が目を見開いたまま固まっていると、玲子がグラスに水を注いでくれる。それを一口飲むと、少しだけ落ち着いた気がした。 「玲子さん、私そんなの絶対許せません! お願いします、私毒物には詳しいんです。どうか私も開発に参加させてください」  気持ちが落ち着くと、自分のするべきことが見えてくる。玲子に深々と頭を下げると、彼女が安堵の笑みを浮かべた。 「ありがとう。実は多喜子から侑奈ちゃんが有毒植物や薬用植物に詳しいって聞いて、お願いにきたのよ。侑奈ちゃんから言い出してくれて良かったわ」  胸を撫で下ろす玲子に侑奈は目を伏せた。  子供のころは好奇心が旺盛だった。植物図鑑を読むだけじゃ分からないことをどうしても知りたくて、自分の体で色々と試したものだ。失敗し苦しむたびに祖父や父に叱られ治療してもらっていたが、いつしか毒に耐性がついたのか何の症状もでなくなっていった。  侑奈は身を以て、有毒植物や薬用植物の効果を調べ上げたのだ。そのおかげで、どれがどれに効くか、はたまた打ち消すかまで分かっている。 (でもこのことが隆文にバレたら自分のことを大切にしていないって怒られそう)  怒っている隆文の怖い顔を想像して、ぶるりと震える。侑奈は玲子の手をがしっと掴んだ。 「あ、あの、玲子さん。私が子供のころ毒草や薬草で遊んでいたことは隆文には黙っていてくださいね」 「そういうわけにはいかないわ。だって隆文がいる会社で薬を開発しているのよ。侑奈ちゃんの知識や耐性について説明しないと開発に参加するのが難しくなるわ」 「で、でもめちゃくちゃ怒られます」 「怒られないわよ。そんな昔のこと……」  だが、玲子は途中で言葉を止めて、ふふふと笑って誤魔化した。 (やっぱり玲子さんも怒るって思っているんじゃないのよ)  侑奈が顔を青くし肩を落とすと、玲子が「大丈夫、大丈夫」と背中をポンポンしてくれる。 「なら、侑奈ちゃんは本社の研究所でやればいいわ」 「え? いいんですか?」 「ええ。いずれ働く会社だし今から慣れておいたほうがいいもの。私の目も届きやすいし、そうしましょう」 「ありがとうございます!」 「侑奈ちゃんと気が合いそうな優秀な人を何人か用意するわね」  玲子の言葉に気持ちがぱあっと明るくなる。侑奈が喜ぶと玲子も同じように喜んでくれた。 (これで気兼ねなくこの神経毒について調べられるわ)
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