施設

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 最期の痛みが刃の愛撫なら、これほど幸福なことはないだろう。  特にアムルは腕がいい。一瞬の痛みにいつも優しさをかけ、皮膚をなぞってくれた。  彼は、この生活の中で唯一の救いだった。 「何が?」 「……え」  目を開く。刃の先はまだ、真っ直ぐ首を見つめたままだ。同じようにして、アムルが僕を見つめている。 「……えっと」 「行こうか」 「えっ?」  何を考えているのか、アムルはナイフを僕から遠ざけた。台へと優しく戻される音がする。死の道具を持っていた腕が、僕の肩に宛てがわれた。 「立てる?」  働きの悪い脳は、予想外の展開に並走してくれない。代わりに寄り添ったのは本能だった。  死、自体が嫌なわけではない。ここで死ぬなら本望ですらあった。けれど、連れ出してくれると言うならば――。  力を借り、身を持ち上げる。揺れる平衡感覚などお構い無しに、瞳で合意の合図を出す。  アムルは小さく困笑し、僕の手をゆっくりと引いた。 *  アムルの速度調整のお陰かもしれない。廊下でも庭でも、僕らは透明人間だった。他の収容者と担当者が、僕らの横を素通りしてゆく。  これこそが本来の空気だ。何も可笑しいことはない。なのに、鋭い目を警戒してしまった。  そんなものは不要だったとすぐに分かったが。   *  施設と外界の境界線を、朽ちた柵だけが守っている。しかも一部が、道を空けるかのように崩壊していた。 「さて、これを君に」  心身に鞭打った所為で、茫然とする僕に何かが近付く。注意を向けると、鍔を掴まれた帽子が差し出されていた。  鞄から出したのか、しわくちゃだ。思考が止まってしまって、取るべき行動の正解が分からない。  察したのだろう。アムルは僕の髪に触れ、持っていた帽子で纏め上げた。かと思いきや、次は目深になるよう押し込まれる。  一瞬視界まで封鎖されたが、見えないと困るので少しあげた。 「ここから出て、少し歩くと小さな町に出る。そこに行けば駅があるんだけど……まだ歩ける?」  ――そうか、町に。  やっと帽子の意図を悟り、自分でも形を整える。準備は整わないが、戻る選択肢はなかった。 「……はい」
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