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僕と美波は、戦前に出会った。20XX年、僕は上級女子志願兵大学校の教員として数学と物理を教えていた。上級女子志願兵の実態は遺伝子改造手術を受けた原油を吐ける人間。原油が吐けなくなると激戦地に二階級特進の上級兵として送られる。兵士とは名ばかりで軍人の現地妻として。激戦地から女性兵士は誰一人帰ってこない。原油精製装置になった彼女達は最後は消される。だから僕は生徒の美波に戦地で隙を見て逃げろと教えた。この戦争は負けると暗に匂わせて。
戦争に負けてこの禁断の遺伝子改造技術は高値で裏ルートで取引されている。戦後復興の十年、僕は仕事に邁進しつつも美波の生還を待ち続けた。実家の葉山家は鉄鋼メーカーの創業家。その三男として僕も系列会社の専務として戦後復興特需の波に乗るべく身を粉にして働いた。その一方で裏社会を仕切る一角を成す山猫組の若頭の川久保に美波を探すように依頼していた。山猫組と葉山家は戦前からの顔馴染み。
美波を見つけ出した川久保がちょっと出過ぎた真似を僕にしてきたので、組長の三毛田さんに頼んで川久保にお灸を据えて貰った。葉山家の人間から余分に金を毟り取ろうとした川久保。三毛田さんのお灸の中身は、僕から毟る予定の金を組長の三毛田さんに過少申告した川久保に対して上納金ノルマを10%を引き上げるという、なかなか厳しい内容だった。やれば出来るがサボれば達成出来ない。おかしな言い方だが、川久保は地道に悪事に励むしかない。
いっそのこと川久保から美波を引き離す。組長の三毛田に言い値を支払い取り分は三毛田と川久保で好きに分ければいい。川久保のノルマ達成にも一役買って八方丸く収まる。問題は美波の気持ちだ。美波にとってどんなに割のいい話でも僕より川久保を選ぶと言われたら…。
悩んでいても仕方ない。美波は普通の仕事につく気があるのかないのか。あるなら支援は惜しまないし、見返りに美波に何か要求することもないと伝えよう。支援の条件は裏社会と縁を切ること、この一つだけ。美波をアオヤマのフレンチレストランに呼び出した。個室で他人に聞かれる心配はない。美波は来てくれるのか?
僕はそわそわと落ち着かない気持ちを読書で誤魔化した。通信ゴーグルに電子本のページを映して読むが、内容が頭に入らない。待ち合わせ時間から15分遅れて美波はやってきた。
「先に言うけど店への出資をしないなら私は何も話はないからね、葉山先生」
先制パンチで僕の出鼻をくじく美波。
「こちらもまともな生活に戻る気がないなら言うことは何もない」
向かい合って座るテーブルに緊張感が走る。
「交渉決裂ね、帰る」
まだ前菜もスープもは運ばれてきていないのに席を立とうとする美波。僕は仕事用の鞄から無造作に札束を取り出す。
「大学の学費以外に生活費は幾らいる?誰かみたいなおかしな見返りは要求しない」
百万円の束を積み上げていく。
美波は溜め息をついて吐き捨てる。
「川久保と何も変わらないわ。おかしな見返りを要求しない代わりに、私が進む道を勝手に決めつけようとしてる」
「じゃあ聞くが本当は何をやりたいんだ?」
「忘れた。何をやりたかったかなんて覚えてない。戦争前のことは全部忘れたことにした」
「…そうか。今は何をしたい?」
「お金持ちになって贅沢がしたい、ただそれだけ。そのために自分の店を持って稼ぐ」
「パトロンにするなら川久保より僕の方が利用価値はあると思うけどどうだ?おかしな見返りなしで大金が手に入る」
「真面目に生きてくのが辛いし馬鹿らしいの。だから川久保との方が気が合うわ」
「そうか。それなら僕がそちらの世界に行く。三毛田さんからちょうどスカウトされてる」
「冗談でしょ?いいとこのお坊っちゃまが」
「士官学校の成績は文武両道で優秀だったんでね、山猫組で使い所はあるらしい。僕が川久保より出世すれば態度を変えるだろう、君は」
「言うだけなら誰でも出来る。本当に山猫組に入って川久保より出世したら考えてあげる」
「よしわかった。早速三毛田さんに挨拶してくる。悪いが食事は君一人でどうぞ。支払いは僕に回すように言っておく」
「ちょっと…葉山先生?」
「止めても無駄さ。君がいつまでも正気に戻らないなら僕が狂気の世界に飛び込む、ただそれだけのことだ」
「待って…。私ね…。勉強は苦手だけどずっとずっと昔に体育大に舞踊科があるって聞いて入ってみたかった。ダンスが好きだから。でも、現役生と年齢がこれだけ離れたら体育大は厳しいと思う。表現とか映像とかそういう方なら興味あるかな」
「そういう方面で一流所は無理だが、そこそこのランクの大学になら葉山家は顔がきく。僕個人のコネクションだと女子大になるがそこにするか、それとも葉山家のコネクションでもうワンランク上がいいか。どちらがいい?」
「先生なんで女子大にコネクションあるの?」
美波はちょっと不満そうだ。ヤキモチなら嬉しいので少し間を置く。
「その大学の創設者の家の跡取り息子が僕の士官学校の同期だ。そこまでレベルは高くないがあまりに露骨なコネクションだと君が在学中、居たたまれない思いをするが実力の方は?」
「この、蝶のタトゥーの下絵は私。流石に先生の同期に胸元見せる訳にはいかないから、描き貯めたスケッチ見て貰って判断して貰う?」
「それがいいな。先に言っておくが、女子大の創業者の家は赤字から黒字化を目指して自転車操業中だ。僕の同期を狙っても負債つき」
「親切にありがとう。先生意外とヤキモチ妬きなんだ」
「君こそ女子大のコネで不機嫌だったが?」
「ふふ、お互い様ね」
フレンチのフルコースを食べ終わり、食後のコーヒーを飲む頃にはほんの少し二人は打ち解けていた。
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