山蛭様といっしょ。

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 合間山(あいまやま)骸峠(むくろとうげ)には山蛭様(やまひるさま)がおわします。  旅人は近隣の集落で必ず忠告される。骸峠にだけは行くなと。その峠を通ると血を抜かれるという言い伝えがある。鹿や猪、忠告を聞かなかった旅の行商人がたびたびそういう目にあって、すっかり誰も近寄らなくなった。  これ幸いと、今日も(かじか)はごんごろと亡骸を並べて、ぜえぜえと息をつく。どうして死んだ人間はこうも重いのか。  三日前の骸は半分ほど吸血されていた。身体の右半分が枯れ木のように骨と皮だけになっている。狼や熊が死体を食い散らかした場合はこうはならない。だから、やっぱり山蛭様はいるのだと思う。どうでもいいことだけれど。血抜きされた亡骸は腐敗臭がしない。獣に荒らされると、ただ土に返すのも難しくなる。いちいち埋める体力などない(かじか)には願ってもないこと。  今日の亡骸は年若い娘。自分と同じ年の頃だったが、痩せっぽちの鰍と違ってふくよかな娘だった。生きていれば羨ましい肉付きだが、死んでしまえばただの肉。重くて適わない。峠にある大木のイチョウの下に並べて、ほっと息をつく。どん、と幹を蹴っ飛ばし、落ちてきた枯れ葉で亡骸を隠す。早く早く、消えてなくなりますように。祈るような気持ちだった。 「あのう、申し……」    いきなり声がして振り向いた。黄昏時の中、ぼんやり光る人影。(かじか)は錆びた短刀を握りしめた。落ち延びた野武士か行商人か、どちらにしろ面倒だ。  けれど、すぐにその異様さに手を止めた。  つやつやの貴族のような長い黒髪、立派な着物、まあるい瞳。薄い唇。日焼けを知らない肌。男か女か分からない中性的な顔は、一見すれば、どこぞの姫様か貴公子様か見惚れるばかりの風体だった。   ……その口元が真っ赤な血で濡れていなければ。その細い手が三日前のちぎれた男の腕を大事に抱えていなければ。  怯えのあまり、声が出ない。山蛭様(やまひるさま)山蛭様(やまひるさま)。頭の中で言い伝えの異形の名が響く。腰を抜かした鰍に、その異形は近づいた。足元がぬるり、と妙な液体に濡れている。  真っ赤な口元は緩やかに開かれて、 「すみません。もうおなかがいっぱいなのですが」    信じられないくらい、情けない声を出した。  伝染病が流行った。峠沿い、もともと貧相で荒れた土地の骸村(むくろむら)──(本当はちゃんとした名前があるのだろうが、近隣の集落からそう呼ばれていた)は、ばたばたと人が死んだ。数十年前の戦で男手がなく、残った女や年寄りたちが寄り合って暮らしている廃村間近の村だった。その日その日暮らしに手一杯で、終わりに近づいていくことに気づく余裕すらない。ただ清潔にして、栄養を得れば治るような風邪ですら、致命的になる。性質(たち)の悪い伝染病など、あっという間に広まった。それでも、ぎりぎり暮らしていけたのはその山が忌地(いみち)だったから。その村に通じる峠には山蛭様という化生(けしょう)が出ると噂があったからだ。見た者はいない。けれど、たまに血抜きされた動物や、落ち武者の遺体が落ちていて、周辺集落から蛇蝎(だかつ)の如く嫌われていた。だから、皮肉なことに女ばかりの荒れた地に野盗や野武士は寄り付かず、隠れ住むように生活していた。  けれど、伝染病で死人が一気に増えたのは困った。火葬するには生活に必要な薪を大量に消費しなければならない。骸村にそんな余裕はない。亡骸を放置し続けると、山蛭様がお山から下りてくる。そう言い伝えられていた。実際は、腐り落ちた遺体はひどい腐臭を放ち、獣を呼び込みかねなかった。熊は一度、人間の味を覚えてしまえば人を食うようになる。伝承上の化生よりよほど現実味あがって、村人は怯えた。  だから、死んだ村人を合間山に運んで捨てること。それが、鰍の村での役割だった。親はとうにいない。母親はこの村の出身らしいが、川に水汲みに村から出た際、盗賊に孕まされたらしい。物心つくころにはいなかった。村に孤児を養う余裕はなく、鰍は峠の入り口のあばら家に住み着いて、勝手に山菜や山の果実を食べて育った。山中のほうが食うものに恵まれているから、当然山に詳しくなった。年端もいかぬ幼子が、獣に襲われなかったのは奇跡である。実際、幼いころ、一晩中迷って出られなくなったことがあった。木々のざわめきや獣の声に怯えて夜を明かし、日の出ととも村に戻れたときは涙が出たものだ。村人は誰も、鰍がいなくなったことにすら、気づいてもいなかったけど。──それも遠い昔。    忌地のお山は鰍にとって庭のようなものだった。人の立ち入らない山は亡骸を捨てるには都合がいい。人を弔う余裕もない村は鰍がその役目を請け負いだすとようやく存在価値を認めてくれた。死体を前にしても忌避も嫌悪も、鰍は感じなかった。役目を果たすと僅かばかりの食料も恵んでくれた。衣服は亡骸から適当に剥いだ。いつも死臭まみれ。血まみれ。十年を経て、年ごろの娘と称されるような年齢になっても、そんな娘に誰も近寄らなかった。伝染病にもかからない。幼いころから厳しい環境と汚泥にまみれて生き残った身体は強いほうなのだろう。皮肉なことに。 「鰍、今日の亡骸は入り口に置いておくでな」    村で唯一、鰍に話しかけるのはしわがれた白髪だらけの婆だった。要件だけを言いおいてさっさと逃げていく。長く村に住まう女らしいが、詳しくは知らない。  亡骸を引き取って鰍はあばら屋の中で、鉈や包丁を吟味する。血濡れて錆びついた刃物は切りにくい。お山で見つけた池で錆びを落としてこなければ。ああ、ついでに水浴びもしてこよう。そう考えながら、刃物を振り下ろした。痩せっぽちの鰍がひとひとりを運ぶ手段はこれしかない。持ち運べる大きさになったら、風呂敷に入れて合間山の骸峠に運ぶ。鰍の日課だった。  足を踏みしめ、自分が(なら)した道を行く。秋の枯れ葉に足を取られないようにぜえぜえと息が出る。先日の雨で降って滑りやすくなった地面に、足を取られた。尻餅をつく前に何者かがその身体を抱きとめる。血だらけ泥だらけ。油の匂い。獣の匂い。薄汚れた娘ひとりだれも鰍に触ろうとしなかった。お山で出会った、その美しい異形以外は。 「今日もいっぱい持ってきたんですね。鰍」  はー、とため息をつく眉目秀麗な顔。黒染めの羽織袴。たっぷりとした黒髪。いつ見ても見惚れてしまう。 「疲れた。もう立てない。ここで食べちゃって、山蛭様」  えー、と男とも女とも似つかない間の抜けた声。灰色の大きな目をうるうると潤まして鰍の風呂敷を取った。 「まだ三日前のご老人も食べ終わってないんですー」 「まだなの? 食べるの遅い。がりがりであんまり血もなかったでしょう?」  山蛭様はめ、と額を小突いた。 「そんなこと言ってはいけません。どんな食事も最後まで大切にしなければ。あなたたちも言うでしょう? 米粒ひとつに七人神様がいるって」  それをあやかしが言うのはどうなのだろう。だいたい白米なんて食べたこともない。 「こんなにはいらないけど、粗末にはできません。鰍も運ぶのが大変なようですし」  山蛭様は腕の筋にぬるりと嚙みついた。ちゅうちゅうと吸う。あっという間に腕は渋柿のような色になり軽くなる。おおと思ったのもつかぬ間、「もうおなかいっぱいです」とへたりこんだ。 「少食すぎる! あやかしならもっと食べたらどうなの!」 「仕方ないでしょう? この峠の村は作物も人間も出来が悪くて、たまに遺体を山に打ち捨ててくれるから住み着いただけです。おひとりあれば充分冬越しできるのに、もうここにきて何人も何人も」  えーん、とわざとらしく、顔を覆う。 「私もついに、人々から供物を与えられるほどの大妖怪になったかと思ったのに。ただの人間の不法投棄だなんてー」  わんわんと山蛭様は泣く。  言い伝えとのあまりの違いに鰍は目をむいた。伝承の通り、血を吸う蛭の異形だとその美しい人は名乗った。初めて会ったとき、ついに殺されるかと思ったら「たくさん持ってきて頂いたのにすみません。もったいないので、持って帰ってくれますか」と言われて困惑したのだ。山蛭様は泣きべそをかきながら、もう一本の腕に吸い付いた。 「おかげで三か月前には小指ほどの蛭だった私が、人型になれるくらいに力をつけてしまいました。髪の毛もこんなに伸びて」  くるりとその場で一回転して見せた。鰍よりずっと艶やかな髪は羨ましくも腹立たしかった。 「ああ、そうなんだ。うっとおしいくらい綺麗だね」 「うう、素直に褒めて欲しいです」  しょんぼりと眉を下げる。落ち込ませた途端に吸血量が落ちた。しまった、と鰍は考えて。 「その髪じゃ、吸うのに邪魔でしょ? 結んであげる」  遺体から剥いだ元結(もとゆい)を出す。山蛭様は「え、」と嬉しそうな声を出し、いそいそと亡骸を地に置く。手櫛で髪を整えて、岩場に腰を下ろした。そわそわ嬉しそうに待たれて、溜息をつく。長い黒髪を後ろにくくって結い上げる。いっそうお姫様のようで、これもまた腹立つくらいに似合っていた。 「わぁ可愛い。ありがとうございます鰍」  振り向いた瞳の睫毛(まつげ)の長いこと。肌の美しいこと。頬を染めるその姿は生娘のようだった。 「山蛭様って男なの? 女なの?」 「……鰍は、どっちがいいですか?」  なんだその質問返し。視線を下げて、くるくる髪の毛を弄っている。仕草は女そのものだが、上背(うわぜい)はあるし、衣装は男性用だった。 「どっちでもいいけど、村に男は少ないから、男の人だと頼もしくて嬉しいかなあ」  ぱあ、と山蛭様は花を飛ばした。 「そうですか! 鰍は雌なのですね。なら、頑張ってかっこよくなりますね。男性の血をいっぱい吸えばいいのでしょうか?」 「いや、知らないけど。ていうか、村に男の人あんまりいないって言ったじゃん。好き嫌いせず食べてね」  えー、と山蛭様は抗議の声を上げた。亡骸を効率よく土に返したい鰍と、亡骸を吸血する蛭、ただ利害が一致しただけの奇妙な関係。けれど。一人きりで生きてきた鰍には悪い気はしなかった。  鰍の奇妙な逢瀬は村に死人が出るたび、そうして続いた。  村に戻ると、荒れ果てた村人はみすぼらしいく田畑を耕していた。やつれきった身体とぼろぼろの着物。まるで夢から覚めたような現実。 「鰍、戻ったのか」  婆に声をかけられた。近寄るのもいとわしいように、亡骸がないのを確認すると、鰍にほんの少しの芋をよこす。いつも不快だったが、今はそんなに気にならない。自分だけがあの物語に出てくるような美しい化生を知っている。  明日は死人が出るだろうか。そうしたら、また会える。  あくる日。今日も今日とて肉肉肉。多いです! と文句を言いつつも山蛭様はちゅうちゅう吸う。肝や心臓などはおろしたてのほうが美味らしい。特に若い女の心臓は絶品らしく、満腹でもかじりついていた。滴り落ちる血をごくごく飲み下し、ぺろりと、長い舌が唇を舐める。恍惚した姿は色気があるほど。ざくろのように色鮮やか。 「あ、いけません私ばかり。鰍も一緒に食べますか? 美味しいですよ」 「山蛭様といっしょにしないでよ。食べないよ」  山蛭様は、ぱちぱちと大きな目を瞬かせた。 「──ああ、そうか。そうですね。人間が人間を食べるのは非常識ですね。失礼しました」  謎の気遣いを見せて、うーんなにかいるかな? と、山蛭様は草むらに手を伸ばした。素早い手さばきでなにかを捕らえる。その手には生きた鼠がわたわたと蠢いていた。 「鼠がいました。食べますか?」 「……いらない」  がっくし。そうしょんぼり山蛭様は肩を下げた。鰍はおかしくなってしまう。気にかけてもらえるのは、単純に嬉しかった。 「山蛭様は本当にあやかしなの? 神様じゃなくて?」  きょとん、と山蛭様は首を傾げた。 「それはないでしょう。だって、血を吸いますから」  何が違うのか、鰍は首を傾げる。 「清浄な神々は絶対に血なんて吸いません。性質上、うっかり人間を殺すこともありますが、それは嵐や洪水が人間の命を奪うも同じ。あのたちは、命を言祝(ことほ)ぐのが本質なので」  でも、あやかしは違います、と山蛭様は鼠の尻尾を掴み、ぷらぷら遊ばせていた。 「まごうことなき、血を吸う行為は、故意に手を下すもの。だから、やっぱり私の本質は妖しい者。あやかしなのです」  ふぅん、と鰍は興味もなく頷いた。血と死に触れないですむなんて、ずいぶん高潔で贅沢な生活をしているに違いない。命が生まれるのなら、血も死も同様に、人間は内包している。 「命を言祝ぐくせに、死や血は汚いから、怖いから、目をそらすんだ。見たくないものを、誰かが目に入らないようにしてくれてるだけじゃない」  今の鰍が行っていることのように。隠したり見えなくしたところで勝手に消えてなくなったりしないのに。神様も村人も大差はない。目をそらす神様より、手を貸してくれるあやかしのほうが、ずっと好ましい。 「でも、山蛭様はあやかしのくせに怖くないね」 「ひ、ひどいですよー」  またあくる日。  鰍は足を引きずっていた。頬も赤黒く腫れて、あまり亡骸を持って来られなかった。いつものイチョウの木の下で岩座に腰かけていた山蛭様は鰍に気づいて微笑んだ。 「おや、今日は少ないのですね。鰍もようやく、量の配分が分かったのでしょうか? 取りすぎもいけないのですよ。太ってしまいますから」  ふふん、と得意げに話す。 「……鰍? どうしたのです? 元気がないですね?」 「殴られたの」  きょとんと山蛭様は首を傾げた。 「村の女に殴られたの。女の妹の死体、私が処理してやったのに、八つ当たり。なんでお前だけ病にかからないのかって言われても。そういうのも慣れたけど、痛くて、寝られないの」  身体中がずきずきする。どこかの骨が折れているのか熱っぽい。 「なら、私が吸ってあげます!」  山蛭様は手を合わせて、妙案を思いついたように声をあげた。 「私の唾液には麻痺の効果があるのです。蛭は動物も人間も噛むんですけど、皆さん噛まれたことに気がつかないでしょう? 痛みを取り除く効果もあるんですよ」  え、と驚く間に手を引かれる。突然、間近になった美しい顔に、胸がどきりと高鳴った。 「あなたの痛みを取り除いてあげましょう。鰍」  ぬるりと首元に舌が這った。痛みはなかった。歯で突き刺すこともなく、ただ生ぬるい感触が這う。それだけで、腰が抜けた。尻餅をついた鰍の上に、山蛭様は伸し掛かった。吐息がかかり、深く首に吸い付かれる。粟立つような鳥肌がたつ。じわ、と生暖かいものが広がって、全身の力が抜けた。血どころか生気まで持っていかれるよう。けれど痛みは遠のいていく。夢心地を微睡むような気持ちよさ。吐息も舌も。山蛭様に包み込まれて、優しく抱きしめられた。こんなふうに、誰かに抱きしめられたことが。労われたことがあったろうか。鰍のざんばらな髪を撫でたあと、山蛭様は唇を離した。 「ほら、もう痛くないでしょう?」  ふんにゃりと山蛭様は笑った。どっと胸の内の、泥とか吹き溜まりとか嫉妬とか恨みとか痛みとか、いろんなものを抜かれた気がした。うとうと、そのまま鰍は微睡む。 「おや、眠くなってしまいましたか。わぁ、お待ちください」  鰍の頭を自身の膝の上にのせて羽織をかけた。その頭を撫でてくれる。心地いい。 「よしよし、よくお眠りください。起きたら鹿肉でも食べましょう。血抜きしてあるから美味しいですよ」  優しい声。甘ったるい声。鰍は安心して目を閉じた。  数度通ううちに、山蛭様も人間の習性に慣れたらしい。鼠や虫ではなく、鹿や鳥の肉を用意してくれていて、鰍が亡骸を渡す代わりに食事をくれた。山の獣も、山蛭様には近づけないのか、まったく見かけない。骸峠周辺は人間も誰も立ち寄らないため、山菜類も多かった。たまに村に帰ると殴られたが、そのたびに山蛭様が吸ってくださるので、寝つきはよく以前よりも治りも早い。悩まされていた貧血も失せて、鰍は村の中で誰より元気になり肉付きもよくなった。村に滞在する時間すら短くなった。村に降りるのは、死体があるか確認するため。ただそれだけ聞ければ、ほとんどの時間を骸峠で過ごしていた。  そうして、長く山に寝泊まりしていたせいで、あれだけあった亡骸が尽きた。前回山を下りてから半月は経っているから、新たな死体も生まれただろう。村中に久々に降り立つ。あばら家の前で数人の村人が待っていた。 「鰍、お前、どこ行っていたんだ」  婆が問いかける。村の女たちの気色が悪そうな目。今にも病どころか飢餓で死にそうな顔色の悪さだった。 「山だよ。いつも行ってるでしょ」 「鰍……? お前……」 「それより、今日は誰か死んでないの?」  婆が悲鳴を上げた。煩い。黙らせようか、と思ったが、背後から飛んできた石が鰍の後頭部を直撃した。意識が混濁し、倒れる。血で滲む眼が、篝火を持ったたくさんの村人を捉えた。 「鰍! お前、あやかしに憑りつかれたな!」  鰍を殴る。蹴る。材木で打つ。 「おかしいと思ったんだ! 村は皆ふせっているのに、お前だけが何事なく血色がよくなって」  腹に一撃入り、胃液が出る。  村人は恐怖と病魔に追い詰められていた。憎悪の渦が鰍を取り囲む。 「触るな、蛭がくっついているかもしれん」  興奮した村人を別の女が制す。鰍は後ろ手に縛られて、そのまま、あばら家の中に放り込まれた。 「火を放て! もともと忌屋(いみや)だ! そのまま燃やしてしまえ」  そのまま火をつけられた。鰍は悲鳴をあげた。火はだめだ。いくらなんでも抵抗できない。黒い煙が取り巻く。熱い。怖い。そう思ったら、なにかが、ぺとぺとと、身体を這っていた。    それは、(おびただ)しいまでの蛭だった。  冷たくてぬめぬめして、まるで繭玉のように鰍の身体を包む。何匹かが火にあぶられて空白ができると、別の蛭が隙間を埋めた。火から守ってくれている。そう思った。  ぱちんと、燃えた蛭が火の粉のように飛ぶ。  村人にくっついた途端に火の手があがる。湧き上がる悲鳴。村の家屋から、軒下からたくさんの蛭蛭蛭。何匹も何匹も、いつの間にか村のあちこちから湧き出てくる。鰍の盾になり、火の粉になった蛭は村人だけでなく家屋にもすぐに燃えうつった。あっという間に枯れた村を浸食し、燃やし尽くした。 「うわああっ……蛭の群れだ!」  蛭の繭玉に包まれながら、村人の悲鳴を聞いた。何故か外の様子が手に取るように分かった。骸峠へ続く山道から、さらに大量の蛭が押し寄せていた。  亡骸も生きている者もすべて。土砂崩れに呑まれるように消えていく。 「やめ、血が」  上がった悲鳴はすぐにかき消される。火事の中、かろうじて生き残っている村人を見つけては、大量の蛭が埋め尽くして生き血を吸う。小さな蛭はすぐに満腹になる。ごんごろとまんまるになってその場に転がる。蛭が一度に吸血できる量はたいしたものではない。その少量の血を、大量の蛭が吸う。血を抜かれ火にあぶられ、地獄絵図と化していた。 「──鰍、どこにいるのですか。起きなさい」  唐突に繭玉が解ける。卵から生まれ出るように鰍は解放された。  ──ぞわりと、妙な気配がした。  目の前に大山蛭がぐぬんと、姿を現した。ぬるぬる。ぬめぬめ。どろどろ。 「山蛭様」  声が出ていた。それがなんなのか、分かった。大木ほどの高さもある大蛭はするりとカタチを変えた。つやつやの黒髪、まあるい目、立派な着物。 「鰍! ああ、よかった! 無事でしたか」  いつものようにふんにゃりと微笑んだ。呆然とした鰍を軽々抱え上げる。ぬるりとした感覚。でも、もう不快ではなかった。むしろひんやりと気持ちいいとすら。 「いっぱい力をつけたので、人里まで降りて来れましたが、ああこれはだめですね。やりすぎました。全員死にます」  鰍を抱えながら、燃えゆく村を笑って見ていた。 「もったいないですし、私一人では吸いきれないので、近隣の山からいっぱいヤマビルを呼びました。でも、もっとうまくやりましょう。食事がたくさんあるのはいいことですが、大量廃棄はいけないことです」  子供を叱るような口調のあと、山蛭様は慰めるように言った。 「やっぱりあなたのような、誰にも(かえり)みられない人間がいる村はもろすぎて、逆に困りものですね」 「……村を手に入れるために、あたしのこと、利用したの?」  利用? 山蛭様は小首を傾げた。その背後にぱちぱちと火の粉が飛ぶ。 「私が鰍を騙して、利用していたと?」 「……そうじゃないの?」  えー、と山蛭様は困ったように笑った。 「鰍、あなたは私をどう見ました?」 「どうって……美しい人だと」 「あ、じゃあ最初からダメです。手遅れです」  ダメ、とは。なにが。聞かなくても分かるような焦燥が背に張り付いた。 「ねえ知っていますか鰍。人間は、蚯蚓(みみず)百足(むかで)(ひる)のような生き物を本能的に強く不快に思う生き物らしいです。ひどいですよね? 蛭は毒もないし医術にだって使われたこともあるのですよ。蚯蚓だって土を浄化するのに。でも、獣や魚よりずっと人間の姿形から離れすぎていて、気味が悪いのでしょうね。人間なら」  ──蛭を美しく思う時点で、間違っている。  それはそうだ。その姿を見た時点で。鰍の本質は揺らいでいたはずだ。  人間であるならば、異形を美しく見るなんて、その時点で終わっている。  理解できれば、簡単なこと。 「十年前も、あの場所であなたは生き倒れていました。どうしようかなと思ったのですが、あなたは血濡れと泥だらけで人の(ことわり)から外れかかっていましたから、目をつけちゃいました。だって、まともな集団の中にいたら子どもがそんな状態で行き倒れているわけないでしょう? お試しもかねて、一度だけ血を吸いました」  あ、でも、ちゃんと鰍のためにもなったはずです、と慌てて山蛭様は言った。 「吸血したおかげで病にかからなかったでしょう? 私が吸うと、感覚が麻痺するし、人間性も無くしてしまうので」  鰍は大きく目を見開いた。  蛭は雌雄同体であるが、繁殖のために交尾はする。首を絞めあうように、まぐわう。  だから山蛭様は、鰍の人間の部分の首を絞めた。締め上げて。残ったのは。 「それでも、当時の私にたいした力はなかったので、あなたは境界を彷徨った中途半端な存在でした。もし、周りの人間がちゃんとあなたの異常に気がついていたら、あなたはまだ人間側に戻ることができたのですが。──結果はほら、御覧の通り」  たったひとりで、まだあんなナリで、忌地の山に、亡骸を運んでいるんですもの。   山蛭様は笑っていた。嘲るでもなく、同情するわけでもなく、仕方がないなというように。 「誰も関心がないのなら、私がもらってかまいませんよね? あなたも。同じ土地に住まう者が、変状しても気づきもしないこの村も」  共同体の強固さは、監視しあうことだ。息苦しいまでの結びつきのおかげで、綻びが生じれば、すぐに発見することができる。田畑を荒らす獣が出れば見回りや罠を張るし、あやかしが出れば追い払う。──道を外れた人間がいれば弾き出す。だから、獣もあやかしも容易に人里には降りていけない。  けれど、その強固な結びつきに綻びがあれば、中から異形化したものがいれば、簡単に滅んでしまう。関心がないとは、何も対策をとらないとは、そういうことだ。  鰍の肌はいつの間にか、傷や豆がなくなっていた。ざんばら髪は、腰まで伸びるつやつやの黒髪に。ぼろぼろの着物は紅梅色の鮮やかな打掛に。瞳は灰色になっていた。黒染めの羽織と並べば、まるで(つがい)。  ただしく、化生。あやかし。鰍に怯え、駆除しようとした村人は正しかった。気がつくのがあまりにも遅かったけれど。  花嫁装束を身にまとった鰍を見て、「わあきれい」とぽっと山蛭様は頬を染めた。 「昔、血を吸った行商人が落とした書物で読んだことがあるのです。貴公子はお姫様を助けるものだって。あなたが村人から襲われるのは分かりきっていたので、絶好の機会に助けようと待っていたのです」  火の粉が飛ぶ、蛭も飛ぶ、人間の悲鳴。 「どうですか? かっこよかったですか? 私のお嫁さんになってくれますか?」  そのおぞましい蛭は、美しく笑った。  合間山の骸峠には山蛭様がおわします。  二対、おわします。骸村はその名の通り、骸になってしまいました。けれど、病巣のような集落があれば、どこにだって、おわします。  焼け爛れた村人の腕を引きちぎって、鰍はぱくりと口に含んだ。焦げてて苦かった。確かに狩りはうまくしないと。全員滅ぼしたらもう食べられないし、美味しくもない。 「最初から、目をつけていたんならさ」  真っ黒の炭。真っ黒の死の村。ほらやっぱり怖いから、汚いから、嫌いだから、関係ないからって面倒事から目をそらしていたら、こうなってしまう。命を言祝ぐ前に、その命すら生まれなくなる。 「どうして、出会い頭に吸わなかったの? そっちのほうが手っ取り早かったじゃない」  山蛭様が、ぱちくりと目を瞬かせたあと。もじもじと熟れた柿のように真っ赤になった。 「好きな女子(おなご)を吸いたいなんて言うの、恥ずかしいじゃないですか。それくらいの慎みはあるのですよー」  めっと額を小突く美しい蛭を見て、鰍は嗤った。
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