黒の女王

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 しん、と静まり返った美術館。  そこにするすると蜘蛛の糸のようにロープを垂らし、音もなく侵入する人影が二つ。  静寂を乱すことなく着地を決める。  二人の見つめる先には、暗闇があった。  美しい円形のソレは、まるで空間を切り取ったかのように真っ黒だった。  その何とも異質な物体が、美術館のケースの中で厳重に保管されている。 「下見の時にも見ましたけど、何度見ても凄いですね……」 「『黒の女王』なんて呼ばれるのも納得よね」  女は、ほう、と恍惚交じりの溜め息を吐き、うっとりとした視線で『黒の女王』を見つめている。  男はそんな女を横目に見て、やや避難がましい声で言う。 「まさか、またコレクションにするために盗むんじゃないですよね?」  びくり、と女の細い肩が跳ねた。  女はけして男と目を合わせない。 「師匠?」  男は信じられないと言いたげに師を呼んだ。  師匠と呼ばれた女はバツが悪そうに咳払いをひとつして告げる。 「師匠のやることに文句をつけるなんて、十年早い」 「いやいやいや!!! さすがに酷いですよ師匠!! この間の宝石も師匠がコレクションにしちゃったから、俺分け前なんにもなかったんですよ!?」 「声がデカいわよ!!!」  言いながら頭を叩かれた弟子は「いてッ」と小さく口にして殴られた頭を摩った。  それから捨てられた子犬もかくやという哀れな瞳を師匠に向ける。 「師匠は俺が野垂れ死んでもいいんだ……」  その哀れな様に、師匠はたじろいだ。  弟子が可愛くないわけではないし、野垂れ死にしてもいいなどと当然思ってもいないのだ。 「……分ったわよ。私のコレクションの中からどれか売って、その代金は全部お前にあげる。それでいいでしょう?」 「師匠!」  ぱあっ、っと分かりやすく瞳を輝かせた弟子に、師匠は苦笑する。  本当に大型犬のようで憎めない弟子だ。  当面の生活費が保証されたので、弟子は気を取り直して本日の獲物の方に意識を戻す。  見れば見るほどに不思議な石だ。  今は閉館していることもあって展示用ライトがついていないが、ライトがついていてもこの石は全く輝かないのだ。  師匠はかなりの数の宝石をコレクションしているが、それと比べてあまりにも異質だ。 「師匠、今更ですけど、これって本当に宝石なんですか?」 「当り前じゃない。何をいまさら」 「だって全然キラキラしてないじゃないですか」  弟子の素朴な疑問に、師匠はひとつ頷いて見せる。 「キラキラ輝いてる石を見て、宝の石だ、と思ったから宝石なんて呼ばれてるのよ。この世界の何より真っ黒な石だって、希少価値で言えば間違いなく宝よ」 「はぁー。なるほど。そういうことなんですね」 「それになにより、この黒の美しさ! 夜の黒だってこんなにも黒くないわ。瞼を閉じた黒より尚黒いのよ。とても美しいわ……」  またうっとりと宝石を見つめる師匠。  弟子はそれに半ば諦めの感情を抱きつつ、「そろそろお仕事にとりかかりません?」と先を促した。  師匠も素直にそれに倣い、手際よくケースの防犯装置を解除する。  そのままの流れで、いとも簡単にケースを開けて見せた。  何度見ても惚れ惚れするこの手腕。  弟子は尊敬の眼差しを師匠に向けたが、師匠はそんな視線に気付くこともない。  師匠の目には、最早眼前の宝石しか映っていないようだった。  師匠が宝石に手を伸ばす。それを見つめる弟子の眼差しから、温度が抜けていくことにも気付かずに。  指先が宝石に触れ――。 「え?」  思わず師匠の口から零れた言葉は、あまりにも当然だった。  宝石に触れたはずの指が、ない。  それどころか、触れたはずの指先から、ず、ず、と宝石の中に引き込まれて行っている。 「な、なにこれ……!? 抜けない……!!」  ショーケースに足を立てて抗うけれど、手が抜ける気配は全くない。  そうしている間にもどんどん宝石に体が吞まれていく。  あまりの非現実的な光景と恐怖に、師匠は「ひっ」と息を引き攣らせた。 「ね、ねえ!? 引っ張ってよ!!!」  傍にいるはずの弟子に声をかけ、必死の形相で振り返る。  そこにいたのはいつもの人好きのする笑みを浮かべた弟子だった。  とてもこんな異常事態を前に出来る表情ではない。  そのあまりにもいつも通りな表情が、あまりに、歪で。 「師匠、今までお世話になりました」 「な、なに、言って」 「師匠は、今まで俺が会ったどの“師匠”よりも盗みが上手でしたよ」  いつも通りの声のトーンで、いつも通りの笑顔で、弟子は日頃の感謝と師匠の技を称える。  意味が判らない。理解が出来ない。悪い夢でも見ているのだろうか?  そうこうしている間に、とうとう肩口まで真っ黒の空間に吸い込まれてしまった。  このままいけば、次は頭が――。  ぞっとした。  宝石に呑まれた先の腕がどうなっているのか分からない。  感覚がない気もするし、動かせているような気もする。  少なくとも、痛みはない。  けれど、頭が吞み込まれて、果たして無事でいられるのだろうか? 「い、嫌だ……ッ!! 助けて!」  まだ無事な方の手を、精一杯弟子に伸ばす。  弟子は柔和に笑って、その手にゆっくりと近づき優しく握った。  師匠の顔に、一瞬安堵が浮かぶ。  弟子は、握ったその手に恭しく触れるだけの口付けを落とし――手を離した。 「ッ――!!!」  師匠は渾身の力で、弟子の手首にしがみついた。  けれど、手袋が滑って力が入らず、徐々に宝石の方へ引っ張られていく。 「どう、して……」 「別に師匠に恨みがあるとかじゃないですよ」 「じゃあ……っ」 「でも、俺のご主人様は師匠じゃないんです」  弟子はあくまで穏やかに言い、その穏やかさからは想像できない力で必死にしがみつく師匠の指を剥がしにかかった。  1本、2本と弟子の手首を掴んでいた指が剝がされる。  そうして攻防という間もないくらいあっという間に手を剥がされ、宝石の引力に否応なく吸い込まれ始める。  頭が半分呑まれ、視界が半分になる。  ここまでくると、なぜか不思議と冷静になれた。  片目になった視界で、以前穏やかな笑顔を浮かべる弟子を射殺さんばかりに睨みつけた。 「一生、恨むわ」 「そんなに想ってもらえるなんて、俺は幸せ者ですね」  照れたように笑う弟子の笑顔を最後に、師匠の頭は宝石に呑みこまれた。  ◆◆◆  深夜の美術館に、スーツを纏った学芸員風の男が二人。  とある怪盗によって開けられた展示ケースを、慎重に戻し始める。  その展示ケースの展示名は『黒の女王』。 「それにしても、なんだって怪盗なんかを使うんです? 囚人とかじゃ駄目なんですか?」  後輩風の男が、もう一人の男に問いかける。 「あなた、説明聞いてませんでしたね?」 「あっ、説明されましたっけ!?」  意図せず居眠りがバレた後輩は目に見えて狼狽したが、先輩風の男は笑って流した。 「別に怒りませんよ。私が担当した説明箇所だったら怒りましたけどね」  冗談めかして言う先輩を見て、後輩は、胸を撫で下ろした。  すみません、と苦笑いしながら言う後輩に、先輩も笑顔を返して、話を続ける。 「怪盗を使う理由は、あの人たちがプロだからです。囚人を使わない理由は、護送の手間もありますが、もし私たちの行いが世間で明るみになった時、批判される可能性があるからですかね」  「プロだから、っていうのもよく分からないんですけど、囚人を使って批判される可能性って何ですか?」  首を傾げる後輩。  先輩はケースを丁寧に磨きながら答える。 「この『黒の女王』が宝石どころか物質ではなく、世界に空いた穴だというのは分かっていますね?」 「はい」 「ドローンを入れたりもしましたが、入れた瞬間に操縦ができなくなり、観測も不可能になる。けれど時々、微弱ながら電波が返ってくる時があります」 「はい。だからこの先は、人間が居住可能な別世界なのではないか、と考えられているんですよね?」 「正確には、その可能性もある、ですね。そこは学会でも意見が分かれるところです」  ケースを磨き終わった先輩は、帰り支度を始める。  後輩も慌てて自分の荷物を持って、周りに忘れ物がないか確認する。  最後に天井を見上げ、怪盗が侵入するのに使ったであろう天窓が開いているのに気付いた。 「先輩、あれは閉めなくていいんですか?」 「ああ、大丈夫ですよ。私たちの仕事はあくまでケース周りだけです。美術館のことはまた違う業者がいますから」  そうして仕事を終えて、二人は帰路についた。  深夜の美術館はしん、と静まり返っていて、慎重に歩いても靴音が響いてしまう。 「それで、話を続けますけど」 「あ、はい。お願いします」 「境界の向こうで機器を操作できるような人物を送れば、もしかしたら何か情報を得られるかもしれない、と考えたわけです」 「でもそれなら、怪盗である必要はなくないですか? 何なら研究者の方が適任では?」 「あなた、生きて帰れるか……いえ、それどころか、生きて渡れるかも分からない穴に飛び込みたいと思いますか?」  半分笑ったような声で問われ、後輩はぶんぶんと首を横に振った。 「絶対に嫌ですね」 「そうでしょう。大半の人間はそうです。とはいえ、その大半に当てはまらない研究者は何人か穴に入っています」 「あ、それは何か資料で見たような……」 「はい。誰も帰ってきていませんし、交信も出来ていません」  重たい沈黙が流れた。  二人の帰り道を歩く靴音だけが小気味よく響いている。 「というわけで、これ以上研究者の優秀な頭脳を失うわけにはいかないので研究者の穴への飛び込みは禁止となったわけです。ではどうするか」 「そこで怪盗ですか」 「そう。彼らは、誰にも見られず、侵入の痕跡も殆ど残さず、しかも何の報酬もなく勝手に穴に飛び込んでくれます」  淡々とした口調で恐ろしいことを口にする先輩に、後輩は少しだけ恐怖を感じつつ、は、はあ、と相槌を打った。 「あれ? でも、それだと怪盗がただ穴に入るだけじゃないですか?」 「その為に我々は“犬”を用意したんです」 「“犬”?」  美術館の従業員出口に辿り着き、外に出る。  しっかりと扉の施錠を確認し、停めてある車に乗り込む。  運転席に先輩、後輩が助手席に座った。 「あなたは初めてでしたね。挨拶なさい」 「初めまして、えーっと。後輩さん?」  先輩がシートベルトをしながら言った言葉に首を傾げた次の瞬間、誰もいないはずの後部座席から声がかかった。 「うわっ!?」 「わ、すみません! 驚かせるつもりじゃなかったんですけど……。大丈夫ですか?」  気遣わし気に後部座席からこちらを見ている青年。  来る時には勿論乗っていなかった人物だった。 「彼が“犬”です。怪盗の懐に入り込み、発信機や盗聴器など、諸々の最新機材を怪盗に仕込みます」  後輩は後部座席の男をまじまじと見つめた。  そして、何となく理解できるような気がした。  頼りなげに垂れた眉に、柔らかく笑みを象る口元。  それを見ると、庇護欲が駆り立てられるのだ。  そうやって、彼は人の心に入り込み、任務を遂行するのだろう。 「囚人を使って批判される可能性とは何か、という話でしたが……どこの世界にも人権保護を謳う人間は存在しますし、仮に穴の向こうが人間の居住できる世界だったとしたら、無罪放免のようなものですからそれも批判されるでしょう。まあ他にもありますが……概ねこういった事情から、囚人の使用は見送られています」  一気に先輩は言って、ゆっくりと車を発進させた。  なるほどなあ、と思いながら、後輩はサイドミラーに映る美術館を眺めていた。  美術館が小さくなって見えなくなった頃、ふと気になって、後部座席の青年に声をかける。 「なあ。怪盗さんと別れるの、辛くないの?」  青年は一瞬きょとんとした顔をしたが、次の瞬間にはにっこりと穏やかな笑顔を作った。 「辛くないですよ。俺はそういう風に躾けられた“犬”ですから」 「そっか。ならいいんだけど」  そこまで興味があった内容でもなかったので、青年の答えに納得して正面を向き直る。  けれども少し気になって、バックミラー越しに青年の姿を覗き見る。  青年は、運転席の後ろ辺りに座って、窓に頭を預けて外を眺めていた。  右手首を、左手の指で何度も優しく撫でているのが僅かに見える。  怪我でもしたのだろうかと少し気になったけれど、外を眺める青年の瞳が何だか寂し気に見えて、声をかけるのが憚られた。  後輩は声をかけるのをやめて、正面を向き直る。  先輩のつけたラジオの音だけが、車内に響いていた。
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