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後宮の黒い華
ここはとある帝国の後宮。
皇帝の女の園。
色とりどりの派手な衣装と、見るからに高価な宝石がふんだんに施されたアクセサリーを、これでもかと競うように身に着けた女たちのむせ返るような濃い香水の匂いが、そこかしこに充満する。
まるで果てしない欲望が行き場を無くし、閉じ込められているかのように。
ここは女という生き物がいかに貪欲であるかを体現したような場所である。
ある者はライバルを押し退けるため、蠍のように強力な毒を持ちながらも、それを一切表に出さず、淡々と皇帝との子を持ち出世する。
またある者は成功した者を妬み、いかにして引きずり降ろそうかと企んでいる。
そんな後宮の片隅に、ひっそりと暮らす慎ましやかな姫。
それがソフィの主である。
いつも清楚な純白の衣装を身に着け、豊満な体を隠している。
ソフィは知っている。
主が、皇帝を心から愛していることを。
ふしだらでありながら、知能が高く、女を夢中にさせる能力に長けた皇子。
その皇子が現皇帝となった時のことを、ソフィはよく覚えている。
(一番皇帝になっちゃいけない人がなっちゃったのよねぇ。いや、この国にとっては最適な人物なのか)
身分に関係なく、気に入れば直ぐ様夜を共にし、妾にする。
そのおかげで、現後宮はこの国の歴史上最大の規模を誇る。皇帝の年齢がまだ三十にも満たないに関わらず、だ。さらにその見目麗しさから妾を望む女は後を絶たない。規模の拡大は現在進行形である。
そんな皇帝を、自室の窓辺から密かに窺い見ることが、主の密かな楽しみなのだ。
主は小国の王女で、戦争の末、貢物のような形で後宮に入れられた。
そのため、未だ皇帝に手を付けられていない、数少ない貴重な存在なのである。
ソフィは、密かに姫には皇帝よりも、もっと誠実な男と結ばれて欲しかったと思っている。
しかしそれは叶わぬ夢だ。
姫は立場上後宮から一生出られない。
目立たないながらも儚く名画のように美しい容姿も、優しい性格も、いずれ皇帝に汚されてしまうと思うと、何とも虚しいと思ってしまう。
「今日は、こちらを見てくださるかしら」
皇帝が自室の外を歩く時は、窓を見ながら口癖のように姫は言う。
ソフィは、そんな姫の小さく細い手が控えめに置かれた窓際の白テーブルの上に、そっと紅茶の入ったティーカップを置き、「ええ、きっと」と答える。
ソフィの心中は複雑だ。
姫が皇帝の目に留まって欲しいのか、欲しくないのか。
醜い権力争いに巻き込まれることなく、姫にはひっそりと純粋に生きて欲しい。そう思う一方で、憧れの男性と結ばれ、子を成し、この後宮で身を潜めることなく堂々と生き残って欲しい、とも思う。
(どっちにしろ、永遠に籠の中に捕らわれた鳥だ)
物悲しさを表には出さず、ソフィはすっと側を離れる。
と、突然、慌てた様子で廊下を走る女官が、部屋を出たソフィに駆け寄り、思いもよらぬ知らせを持って来た。
なんと、皇帝が今から姫の部屋を訪ねるというのだ。
急ぎ姫にそれを知らせ、身支度を始める。
姫は嬉しさに頬を紅潮させ、鈴の鳴るような美しい声で笑う。
白いレース生地で作られたタイトドレスに身を包み、真っ直ぐで艷やかな黒髪を片側に寄せた姫は、お気に入りの髪飾りを自らの手でつける。
間もなく、皇帝が部屋の前に到着した。
(直前に連絡を寄越すなんて、何とも配慮のない)
内心毒づきながらも、それをおくびにも出さず、ソフィは皇帝を迎えた。
部屋の中へと消える皇帝を見送り、姫は大丈夫だろうかと心配する。
数時間後、皇帝が部屋を後にし、それと入れ替わりにソフィが薄暗く静かな部屋に足を踏み入れると、姫が紅潮した顔でベッドに腰掛けている姿が目に映った。
美しい微笑みをたたえて。
それから間もなく、後宮内で不可解な事件が相次いだ。子を持つ皇帝の側室たちが次々と失踪したのだ。
何よりも不可解なのは、皇帝がそのことを一切気に留めていないことだ。
それどころか、毎晩のように姫の元を訪れるようになった。
やがて姫は子を身ごもり、無事に皇子を出産した。
そんな姫に嫉妬し危害を加えようとした者は、次々と謎の失踪を遂げた。
側室の中でも地位の低かった姫は、数年後、皇后にまで上り詰め、もうけた三人の皇子のうち、第一皇子が幼くして皇太子の座に就いた。その頃には、他の側室が産んだ皇子は、問題を起こして地方に追いやられ身分を剥奪されているか、病死していたため、姫の産んだ三人の皇子のみが宮殿に残っていた。
姫の権力に刃向かえる者は、もう後宮にはいない。
皇帝でさえも―――――。
「ねぇ、ソフィ。紅茶をいただける?」
主は今日も、変わらぬ優しい笑みをたたえ、後宮で一番大きな部屋の窓際に座っている。
ソフィは鼻歌を歌いながら、紅茶を準備した。
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