顔面喪失

1/8
前へ
/8ページ
次へ
「じゃあ、俺の顔が黒く塗りつぶされて見えるってこと?」  ごく自然な、「次って美術だったよね?」と問うような響きだった。 「そういうこと、かもしれない」 「へぇ」 「ごめん」  佐藤くんは、まだ謎を抱えているような、納得がいかない気配とともに、いつものメンバーのもとへと戻っていった。  私には、人の顔がよくわからない。  ちゃんと見えてはいる。でも、その人が視界から消えた途端、どんな顔だったかわからなくなってしまうんだ。  そんなだから、私は街中で誰かと会っても、見たことがあるような気がするってくらいしか認識できない。  親だって、家族だって同じだ。 「なんだ、声かけてくれればいいのに」  そう、何回言われたことだろう。  私は、自分の顔もよくわからない。  鏡に映して何度も見ているはずなのに、鏡を失うと頭の中にある顔面が崩壊する。  私の頭の中には、人の顔がひとつもまともな形を成して記憶されていないのだ。  普通の人は、ちゃんと顔を覚えることができるらしい。  街中で知り合いに会ったなら、面倒がって気づかないふりをする場合を除いては、あいさつをしたり、雑談を始めたりしている。  そんな楽しげなことを、私はできない。  普通の人は、知り合いとコミュニケーションを取り合って生きている。そして、片方ばかりが声をかけるようになるとか、コミュニケーションのバランスが崩れ始めると、関係の糸をどんどんと長くして、そうして目が届かなくなったころにチョキン、と幻の音とともに切断する。  普通の人は、声をかけ、声をかけられの関係を維持できるから、そう簡単には糸は切れない。  だけど、私は普通じゃない。  誰かに声をかけられるばかりで、こちらから声をかけることはない。  崩れたバランスの修正方法なんてわからないし、相手に甘えること以外に維持する方法なんて存在しないから、だんだんと糸は長くなり、幻の音が響く。  幻の音は、私の頭の中では確かに響く。  ――チョキン。  これまでの人生で、いったい何回あの音を聞いただろう。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加