一年後

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「いってらっしゃい」  賢治には届かない声量で返した。  ここ最近、賢治の出社を見送ると、彼の思考から追い出されてしまう気がして怖い。ピリッと舌が焼けて、それは順に臓器を痛めつけていく。追い出されるなんて考えは間違っている。自分はこの家にいるから、実質家の外にいるのは賢治の方だ。それなのに疎外感を覚えるのはなんでだろう。彼に依存しているな、と春人は玄関ホールの壁に背を預けて膝を引き寄せた。賢治は戻ってこない。車のドアを閉じる音がした。 「そのくらいで安心するなよ」  目の奥が熱くなり、未だに自分は悲しめるのだと知った。ひとりぼっちにしないで。忘れ物でもしてくれよ。もう一度顔を見せてきて、こんなに胸が苦しいのだから。  五分たってもドアは外から開かれなかった。 「もういい」  我ながらすねた声だ。賢治を見送るだけなのに、なんで自分がこんなに思い悩まなくてはならないのだ。  大股で二階に上がり、寝室に戻った。昨夜の営みの名残でしわくちゃになったシーツに顔を埋めると、賢治の体臭でいっぱいになる。賢治は働きに行ったのに、いつもみたいに息が止まる強さで抱きしめられていると錯覚した。  まぶたが重く、簡単に寝入った。外で正午のサイレンが鳴ったから、賢治の匂いがする枕から顔を上げた。一階に下りた春人は適当に昼を済ます。キッチンで皿を洗っていたら、家の外で車の走り去る音がした。この周辺に建物がないことから、恐らく配送業者が置き配したのだろう。春人は取りに行こうとはせず、手元の高価な皿に視線を戻した。宅配物は夜に賢治が受け取る決まりだ。  キッチンからリビングの窓を通して庭が見える。視界の右側の造作棚には賢治が収集している本が並んでいる。春人は庭に出て、木につるしてある鳥用の餌台に餌用の小豆を置く。あとはリビングの大きな二面窓から、庭に集まる鳥を観察した。来て欲しい鳥が来ないから、台所でりんごの皮を剥かず横に半分カットし、他の木の枝にりんごを刺した。直射日光を浴びた果実が白から黄色に変色していく。鳥の水場として作った池の金魚が、春人の足音に餌を期待して寄ってくる。りんごは水質が悪くなることから、金魚には違う餌を与えた。ぷくぷくと育っていて微笑ましいな、と春人は池の前でしゃがみ込んだ。  梅雨も明けて夏の声が近くで聞こえてくる。土や草木は瑞々しく青く、天に向かって背を伸ばしていた。今の自分は長袖を着ていないし帽子も忘れていた。日焼けをしたら直ぐに肌が赤くなるから、あとで賢治に叱られるだろうな。 「母さん、元気にしてるかな」  音沙汰がないのはきっと良いことだ。  深夜に帰宅した賢治は上機嫌だった。ベッドで丸くなっていた春人は、風呂から上がったばかりの賢治に後ろから抱かれた。湿った肌が、熱い手が、春人の冷たくなった体をとろけさせる。  何度目かの絶頂で全身が小刻みに痙攣した。息を整えようと夜空を見上げた。真っ暗で星は見えなかった。牢獄にしては快適な暮らしだった。
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