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「まじか」
通勤客の声がした。
駅員のアナウンスによれば、線路に不審物を見つけたことから運転停止となったそうな。各駅電車しか止まらない駅のホームでは、通勤や通学の客でごった返している。それぞれが緊迫した表情をさせて忙しなくホームを行き来する。当駅に停車した急行電車から乗客が吐き出される。互いにぎゅうぎゅうと肩で押し合いながらも、おもちゃの兵士みたいに整列して階段を下りていく。
春人は電光掲示板と睨めっこし、バスかタクシーを使うか考えていた。人の流れが横に動いた。線路に落ちるのが怖くて、自動販売機の横側に背を預ける。機械音の振動がしたからとっさに肩を丸めた。それでも、どうにか居場所を死守したことで、心のゆとりを持てた。
近くにいた青年は、このまま運転再開を待つのか、慣れた様子でスマートフォンのゲームを始めた。斜め前のスーツ姿の男性が駅員に向けて怒鳴っていた。その男性の苛立った声に、春人は恐怖し、反射的に肩を揺らしてしまう。
その男性が「もういい」と吐き捨て、こちらに顔を向けた。じろじろと見ていた後ろめたさから、春人は目をそらす。丁度近くにいた春人が、焦った顔で突っ立っているのが邪魔だったようで、男性が脇を通り抜ける際に舌打ちをした。それが自分に向けてなのか、ここにいる全員に向けてなのかは分からない。それでも、どうせ自分のことだから、と大人しい顔立ちで背もそう高くもない春人は、周囲を見渡さずに決めつけた。自己評価の低い自分にうんざりする。昔から人に甘く見られてきたから卑屈な性格になるのも仕様がない。しかし、それで自分の首を絞めているからこそ始末に負えない。
自分はここにいる人達と程遠い世界にいると達観する。選択権が己にあることは、生きているということだ。と、春人は下唇を噛んだ。
改札へと戻る道が自然と形成されていくのを物珍しい気持ちで眺めた。彼らは揃って疲れ切った顔をしており、スマートフォンに素早く何かを打ち込んだり重大事件のように電話をしたりしている。数年前の自分も同じことをしていた。生活の保障のために、居場所を失わないためにしがみついていた。その隙間時間が一秒でも惜しいと誰かの発信するニュースを追いかけた。数秒後先には忘れている話題でも、把握していないと気が休まらなかった。全人類が中毒になったみたいだ。
彼らが心底うらやましかった。あの日々こそ、世間でいう普通の生活なのだろう。毎日満員電車に揺られて会社に行き、仕事でミスした部下の代わりに上司に叱られて、誰もいない家の冷たいベッドで気絶するように寝る。そんな華のない暮らし振りも、今の自分からすれば眩しかった。あれこそバラ色の生活だ。いつ心身の不調が起きてもおかしくなかったし、もしも病院に担ぎ込まれでもしたら翌日には自分の席は無くなっている。そんな生き方でも、賢治との生活と比べたら健全だ。
「あっ、そう言えば」
賢治に何で遅くなったかと問い詰められるだろう。万が一を考えて改札前で駅員さんが配っていた遅延証明書をもらった。改札前の白く発光した床で滑りそうになった。うまく着地できなかったかかとを踏ん張る。結局、春人は電車を諦め、バスを乗り継いで帰宅した。幸いなことに賢治はまだ帰ってきていない。
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