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「大丈夫ですかっ」
ようやく来たパトカーの赤い光で、スーツ姿の男の姿が順に浮かび上がる。先ずは磨き上げられた紳士靴とネイビーのスーツ姿が目に入る。三十を過ぎているのだろう、骨格のしっかりした顔、目は切れ長で、鼻と口が程よい形をしている。少し日に焼けた首は太く、スーツの上からでも頑丈な体躯をしていることが見て取れた。
スーツ姿の男は警察の事情聴取を終えると、春人を手招いた。
「この方が協力してくれたんです、お名前は」
其れとなく名前を聞かれた。スーツ姿の男の目がすうっと細められた。
「野田春人です、仕事の帰り道でして、はい、偶然立ち会っただけです、大してお役に立てず」
とことん災厄が降りかかる日だ。
警察から何点か話を聞かれて解放された春人に、スーツ姿の男が頭を下げてきた。
「巻き込んでしまい申し訳ありません、えっと野田さんですよね」
先程の恫喝する態度から一転して、低くとろけるような甘さのある声を出した。
「ええ、こちらこそ上手く対処ができずにすいません」
春人の声は、仕事の取引先に頭を下げるときみたいに演技がかっていた。動揺で心臓がバクバクしているのに、こんな時でも平静を装ってしまう。厄介事に巻き込まれたくなかった。肘以外に怪我をしていないかな、自転車は平気かな。と、この際どうでもいいのに気になる。
「そんな、謝らないでください、こちらの不注意です、肘を打ちましたよね、救急車を呼んでも良いでしょうか」
鹿田賢治と名乗る男が、スーツのジャケットから携帯電話を取り出す。
「あの、僕は大丈夫なんで、ほら、肘をすりむいただけですから」
腕を見たらワイシャツの生地が破れていた。奇跡的に血は流れていない。地面にこすっただけで、たいしたことはなかった。
今更ながら、上等な服を着る賢治を見た。派手に整った容姿、恵まれた大柄な体格、どれを見ても胸がちりっと痛む。自分とは住む世界が違う。賢治の車は、春人がいつか一攫千金を得たら手に入れたいと憧れていた外車のロードスターだった。それを傷つけられて取り乱さない様子からして、賢治は裕福なのだろう。
「もう行かないと」
春人が近くに置いた自転車を取りに行こうとするも、賢治によって押しとどめられた。骨張った手は大きい。
「夜は危ないです」
「えっ……だ、大丈夫ですよ」
春人が顔の前で手を振ると、賢治が困り果てた顔をさせた。まばらに散らばった住民達がこちらの様子を窺っている。春人が大げさに手を動かして笑顔を見せると、近くにいた人達は「大丈夫みたいだね」と家に入っていく。それなのに賢治だけは難しい顔をさせた。事故の当事者だからか、地面に膝を突いて春人に異常がないか服の上から触ってくる。一通り確認して気が済んだのか、賢治は立ち上がって名刺を手渡してくる。
「私はこういう者です、救急車が駄目ならば、タクシーで病院に行きましょう」
春人はそれを受け取らなかった。
「いいです、僕よりも、鹿田さんのほうが病院に行かれた方がいいですよ、本当に怪我はないんですか? だってエアバッグが」
「怪我の一つでもしていたら請求額を上げられるんですけどね、この通り頑丈で」
賢治は困った顔で、胸を張って見せた。その厚い胸板に見とれていたら、賢治が勝手に春人の胸ポケットに名刺を入れた。
面倒事が、人との繋がりが増えていく。そんなのいらない。だっていつかは春人に飽きていなくなるのだから。終わりの見える関係なんて不毛だ。
「僕は失礼します」
「そんな、野田さんの体が心配です」
どうしても引き下がらないのか、と春人はこの場から逃げるために賢治の手を払った。彼の指輪には赤い血が付いていた。恐ろしくなった春人は自転車を取りに行く。事を大きくしたくないから、その場しのぎの言葉を探す。
「ほら、自転車ですから安全ですよ」
何が安全なのか説明しろと言われないように急いで坂を上った。
「野田さん、俺を覚えていませんか」
背後を振り返ると、賢治がこちらに向かって仁王立ちしている。パトカーの赤い蛍光灯で、賢治の顔が血に塗られたみたいになっていた。頭上に咲く名も知らぬ花が風で騒がしく、次に彼が発した声を消した。
春人は瞬きすら忘れて、しばらく坂の下を見ていた。
「鹿田賢治です、思い出したら、思い出さなくても良いです、連絡してください」
深夜に、ただ彼の声だけが残った。
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