りん

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りん

「悲しい時は泣いたらいいさ」  女はそう言った。  頭を撫でてくれるわけでもなく、慰めてくれるわけでもなかったが、紗代の気持ちをわかってくれている気がした。 「とと……、かか……」  紗代はしばらくの間泣いていた。  しばらくして雨が上がると女の姿は消えていたが、誰かが自分に気付き側にいてくれたことで心が収まった。  紗代も雨上がりの空のように晴れやかな気持ちになって、急いでお屋敷に戻った。  それから三年も経つと、大奥様は床に臥せることが多くなった。紗代は大奥様をお世話しながら、母屋の手伝いもできるようになっていた。  十一になった紗代は綺麗な娘に育っていて、お遣いでたまに町に出ると、江戸から娘を買いに来た女衒(ぜげん)に声をかけられることがあった。  その日も町へお遣いに行き、雨に降られて店の軒下にいると、旅姿の男が入ってきた。 「嬢ちゃんはどこの子だい? お(たな)に奉公してるのかい?」  紗代を上から下まで値踏みするように見ると、女衒は聞いた。 「きれいな着物(べべ)を着て、旨いものが食べられるぜ。どうだい、おっちゃんと江戸へ行かねえかい?」  紗代は無視した。逃げたかったが雨に濡れるのもいやだった。  するとどこかで見ていたのか、いつかの白藤色の着物の女が軒下に入ってきて、「やめな、おっちゃん。この()に手を出すんじゃないよ」と助け舟を出してくれた。 「ちっ。なんでえ、母親がいたのかい。磨きゃあいい玉になるんだが諦めらあ」  そう言うと、女衒は雨の中去っていった。  そんな感じで雨の日に、紗代が悲しかったり困っていると女は現れた。  下働きの梅に意地悪でお仕着せを汚され、雨の降る夜、井戸端に出て汚れを洗っている時、悔しくて泣いていると女が立っていることもあった。 「あんたは、もしかしてあたしのおっ()さんなの?」  紗代は思い切って聞いてみた。  女が最初に出会った時からいつも同じ白藤色の着物を着て、年を取った様子がないのに紗代は気付いていた。  この女は生きた人間ではないと感じていた。  では誰なのか? あの女衒の男が言ったように、紗代が赤子の時に大水で亡くなった母ではないかと考えた。  死んだ母が自分のことを心配してずっと見守ってくれている──。そう思うと、心が柔らかくなるようだった。 「いや、残念だが違うんだよ」  しかし、女の答えは期待はずれだった。 (なんだ。違うのか)  淡い期待を打ち砕かれた。 「じゃあ、誰? 姉さんをなんて呼べばいいの?」  紗代が聞くと、女は答えた。 「昔のことで実の名は忘れちまった。“りん”とでも呼んでおくれ」 「りんさん」  紗代はこくんと肯いた。
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