堤工事

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堤工事

 紗代が十五になる年の始め、幸助が戻ってきた。  日焼けして逞しく成長し、もう一人前の男だった。 「お紗代、元気だったか?」  長旅の疲れも見せず、幸吉は草鞋を脱ぎ、お紗代が用意した足濯ぎの水で足を洗いながら笑顔で聞いた。 「はい。幸助様は立派になられて。お帰りをお待ちしておりました」  紗代が眩し気に見上げると、幸助は嬉しそうに笑って、「紗代は綺麗になったな」と言った。紗代は頬を染めた。  これはお民に聞いた話だが、幸助はたびたび起きる大水をなんとかしたいと、江戸の土功家(土木技術者)の元で学ぶため、江戸に行っていたのだという。  この度、師匠の許可を得て、故郷に戻ってきたのだ。 「幸助坊ちゃんは本当にご立派ですよ」  幸助贔屓のお民は嬉しそうに何度もそう言った。 「さあ、坊ちゃん、お父様、お母様がお待ちですよ」  お民がにこにこして奥へと急かす。  そして紗代に、「りん。奥へ行って坊ちゃんの昼餉を用意しておくれ」と指示をした。  すると、幸助の顔色が変わった。 「りん? りんとはどういうことだ?」  幸助は厳しい声でお民に詰め寄り、お民は困った顔をした。  しかしこれはお民には関係ないこと。紗代は、幸助が家を出たすぐあと、名を“りん”と改めるよう名主に言われたことを話した。 「親父のやつ!」  幸助は怒ったような顔になり、両親の元へと急いだ。  早春の雪解けで増水し、川の堤が崩れて水が出た。小さな越水で大事にはならなかったが、藩の役人が検分に来て、梅雨に入る前に堤をさらに高く築き直すようにとお達しが出た。  しかし幸助が、この工事に反対した。  この周辺で昔から取られていた堤を高く築く方法では、大水の被害は免れないと幸助は言った。そして、江戸で学んできた工法に変更するべきだと強く進言したのだ。  従来の方法、つまり堤をより高く築いたとしても、地形の関係で大雨で崩れる可能性は残るのだという。  それに対して幸吉の案は、川岸に二重の堤を造るもので、内側の堤は中程度の洪水を防ぐ高さに留め、それを超えた場合も外側の堤防で留まるようにして、人や家、田畑への被害をなくすというものだった。  しかしこの案には、川沿いに暮らす者、田畑がある者達が反意を示し、話はうまく運ばなかった。幸助の父自身が川沿いに家作や田畑を多く所有しており、それを小作人に貸して利益を得ていたから、皆名主の顔色を伺いうんとは言わなかった。  前よりも高い堤を造る計画のまま、多くの村人が夫役に駆り出され、大掛かりな工事が始まった。  自分の案は通らなかったが、それでも幸吉は毎日現場に出て人夫に混じって懸命に働いた。  そんな幸助が、紗代は誇らしかった。
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