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左手に提げたスポーツバッグを、強くしっかりと握り締めた。
雑居ビルに足を踏み入れた。
一階は焼肉屋だ。店の前の通路を奥まで進めば裏口に出る。エレベーターは焼肉屋の出入口の真ん前にある。エレベーターに乗って、六階のボタンを押した。
エレベーターが動き出すと、内臓が身体の中でずり落ちるような厭な感覚をおぼえた。
階数を表示するランプを見つめながら、黒くんとの最初の出会いを記憶の奥底から呼び覚ましてみる。
出会いは一年前。激しい夕立にずぶ濡れになって泣いていたあの日の私は、身勝手な男によって身も心もズタズタに引き裂かれて、壊れる寸前のボロボロだった。社会人になって一年目。世の中のことを何も知らなかった私は、気持ちの安らぎを職場の年上の男性に求め、そして見事に裏切られたのだった。
「結婚して子供もいるなんて、今まで一度も言わなかった」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「酷い」
「そんな顔しないで、ほら、今まで通りに楽しもう」
あんなに愛しかった指先なのに。
「みさき。ここをこんなふうにされるのが好きなんだろう」
身体を這いずりまわる指先が、視界の中で霞んでゆく。私を見つめる眼差し。酷く穢れて見えた。彼と一緒に過ごした六ヶ月間のすべてが、一瞬のうちに色褪せてゆく。
「やめて」
手を払い除けた。
「いいじゃないか。こんないいカラダしてるんだから。若いうちにたくさん楽しんでおかないと、オバさんになってから後悔するよ。今は二十二歳でも、三十代四十代なんてあっという間だよ。四十過ぎたらもう五十だよ。そんときになって若い頃にたくさん楽しんでおけば良かったと後悔しても遅いんだからさ。だからほら、綺麗なカラダを隠さないで」
「触らないで」
「わかったわかった。妻とはいずれ離婚するから。子供も向こうにくれてやる。それならいいだろう。さあ、いつものように口でしてくれよ」
「帰ります!」
しがみついてくる脂ぎった男を振り払い、急ぎ服を身につけた。後ろも振り返らずに、ホテルの外に飛び出した。
土砂降りの雨だった。
夕立。
傘もささずに泣きながら歩いていると、ハンドバッグの中の携帯電話が、聞いたこともないメロディを鳴らしていることに気づいた。
画面。これまでに一度も見たことがないアプリが立ち上がっていた。
――AIカレシ&AIカノジョ――
いつの間にインストールしたのか。まるで記憶になかった。
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