後向きのこれまで

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後向きのこれまで

「だからね、言ってやったの。貴方、急いでるんでしょ? 出勤するんでしょ? これが要るんでしょ? なら、私に謝りなさいよ。そうしたら、このハムスターを返してあげる、って」 「本当に旦那のハムスターを取り上げたの? 貴女に内緒で飼っていたの?」 「いいえ、ハムスターは愛称。正式名称は電動シェーバ。ようするに、旦那の髭剃りを人質に取ったの」  耐震強度が心配になるほどの硝子張りに囲まれた店内。  長方形の硝子テーブルを挟んだ向こう側へ並んで座る、同じマンションに住む、ほぼ同世代の女性二人。その二人が手を叩いて大笑いをする。自分達が発したジョークがよほど可笑しかったのだろう。  店内各所のテーブルから視線が向けられるのを感じる。悪目立ちをしている。こういう注目のされ方は嫌だな、という感想を抱きつつ、私も二人に合わせて愛想笑いを作る。顔だけのこと。  今しがたのジョークの面白さは理解できなかった。おそらく、共感できる要点が一つとして存在しなかったことに起因する感情的差異、実行された対応と、私が想定する状況描写との明確な開きに由来する摩擦が、面白い、という反応を引き出せなかった要因だろう。  自分の旦那様へ、それほどの喧嘩腰で臨むのは何故?  嫌がらせのような真似をし、その行為だけで満足をしてしまうのは何故?  疑問を覚えることしきり。  時間を確保し、座して対面する場を設け、互いが衝突した原初の出来事と動機を明示し、話し合いという手段で、わだかまりを解消していく方が良いのではないか?  攻撃の応酬に価値はない。いがみ合いを続けていけば、不満という純粋感情は順調に敵意へと変化してく。敵意は憎しみに、憎しみは憎悪へ成長する。先に待つのは物理的・心理的を問わない争いだ。争いは醜く、そして無為である。心身を消耗するばかりで利益を生まない。あらゆるリソースを無駄喰いする。具体的には、時間、お金、若さ、社会的立場を脅かす。そんな実害が生じてしまう前段階で対話を実行し、危機回避をし、感情を清算し、折り合いを付けることで解決を図る。人間にはそれができる。その為の知性であり、その為の論理的思考回路。感情と思考を言葉という言語へ変換し、声という波長で対象へ伝達する。理解し、分析し、自らの理屈と照合と処理を行い、相手へ同様の方法で返還する。これを繰り返す。これだけの反復で、人間は相手の意思を正確に解し、より深く知ることが叶う。素晴らしい機能だ。こんな素敵機能が私達にはデフォルトで備わっているのだから使わない手はない。そのはずなのだけれど、どうしてだか多くの者達は活用しない。機能を育てず、拡張も行わない。そんな人々が世の中には沢山いる。不思議で、勿体ない、と感じる。  でも、これはあくまで私個人の意見であり、私の頭の中で形成され、展開される理屈。赤の他人へ押し付けるつもりはないし、全人類が私と同じ考え方をするべきだ、なんて身勝手で横暴で傲慢な発想はしない。  今だって、そう。  目の前のやり取りを観察、分析して、感想を抱き、相手と自分の感性という境界条件において、どこが違うのかを考察し、納得するに留める。  何でもかんでも口にしたりはしない。私とは感性や波長が異なるのだな、と解釈するだけ。  自分の意見を必ず口にしなければいけない、という規約は存在しないし、自分の思考パターンを無闇にひけらかす必要もない。そんな真似をしても得るものがない。疎まれるだけ。  個々人が他人と行う意思疎通において、どのような対応を選択するのか、これは基本的に自由である。故に、やり取りに逐一、口を出し、自分の主観的判別・独自の見解を、他人や周囲へ押し付けるのは筋が違う。  どのような瞬間であっても、強要や強制はしたくない。自分にとって重要な情報ならば素直に回収し、応じた建設的意見を述べる、それらが不要な娯楽的・談笑の場では、朗らかに、爽やかに、凪のように過ごす。私は学生の頃から、このスタンスで通している。  人間は皆、違って然るべきなのだ。  考え方も、過ごし方も、人間同士の対話においてもそう。  違うからこそ価値がある。異なる価値観が擦り合わせられる中で、電撃的閃き、独創に満ちた案、新たな価値が誕生する。  であるならば、人間同士は、内も外も異なっている方が得なのだ。  その過程で、どうにも波長が合わない、自分とは相性が悪い、と感じたなら、物理的距離を取るなり、心理的静状プロテクトを形成して遮断すればいい。応対を割り切り、関係を手離す労力ならば、最小限の消耗で済む。その方が、相手にとっても、自分にとっても、ラフで済む。  目の前の出来事だからと、全てを深刻に受け留めることはない。  悩む時間は短縮して、問題の解決に時間をかけない方が良い。  時間は不可逆。自分が本当にやりたいことにだけ使った方がいい。  でないと後悔する。失った時間を嘆くのは、他でもない自分自身だから。  私は、そう考える。  そう……考えている、今でも。  これまでも、そういう考え方で。  生きてきた、ずっと。  間違っていたとは思わない。  自信はある。筋の通った理屈であると自負している。  それなら、どうして実行できていないのか?  これまでの生活では実行できていた。  学生生活の中でも、大学へ上がってからも、研究室に入ってからも、上手くやれていた。  どうしてだろう? どこからだろう? いつからだろう?  こんな有り様になってしまったのは……。  嘘と誤魔化し、その場しのぎの愛想笑い。崩れた毎日。自分の考え方が反映されない、不合理で不都合な時間の溶かし方に呻き、そこから抜け出す努力をしない矛盾した姿勢。  これまでは違った。線引きをしていたし、思考と行動が一致していた。自分に合ったスタンスを自分の意思で創り上げ、それに沿って生きていた。自作だから、素直に従えた。抵抗も摩擦も、一切感じたことはなかった。  時間を無駄に、なんてあり得なかった。投資した時間と労力に見合うだけの知性を手に入れ、相応の成果も出してきた。だからこそ、持論に自信があった。確信を持てていた。誰かと比較して、という意味でなく、自己満足として、自分が構築した理屈に自分自身が納得している、という意味。  これまでは、そうだった。  あんまりな過去形。  今は?  迷っている。  どうして?  どうしてだろう。  見失っている。  何を?  おそらく、自分という人間を。  迷走している。  生き方も、思考も。  最も厄介なのは。  迷っていると自覚しているのに、脱け出すための方策を思いつけないことだ。 「姫(ひめ)ちゃんのところは、どうなの?」 「……えっ?」  唐突な指名に、私は遅れて反応する。意識が完全に思考の地平面へと出張していた。 「もう、私達の話聞いてた? 旦那さんと、どうなの? っていう話。姫ちゃん、まだ新婚さんでしょ?」 「橙乃(とうの)さん、こっちのマンションに越して来た時には、もう入籍してたよね? じゃあ、そろそろ一年じゃない?」 「旦那さんとは仲良し? 会話はある? ギスギスしてない? ほら、相手もしてもらってる?」 「橙乃さんの旦那さん、顔恰好良いよねぇ。羨ましいなぁ。うちの旦那と交換して欲しいくらい」  透明な硝子テーブルを挟んだ向こう側から、透明とは程遠い粘質な色を帯びた質問を矢継ぎ早に浴びせられる。  勢いばかりがあって、形式も指定対象も不明瞭。私への質問なのか、二人の顔がこちらを向いているだけで、実は隣同士で会話しているのか分からない。下品な詮索意識を隠そうともせず、身を乗り出して聞き出したがるのも良くない。印象が下方へ墜落していくばかり。現に私は辟易している。 「ええ、一年になります。ただ、彼、毎日忙しくて……」  ここまで答えた段階で、二人は大きな声を上げ、私の返答の後半を遮った。 「え~可哀想。姫ちゃんまだ若いし、可愛いのに勿体ない」 「橙乃(とうの)さんみたいな人でも欲求不満になるんだね。意外~」 「顔やスタイルが良くても、男の人ってやっぱり、飽きちゃうのかなぁ」 「忙しいのもあるんじゃない? 旦那さん、公務員だったよね? 高給取りってことは激務でしょう? 良い稼ぎと円満な家庭の両立って難しいよ。人間、簡単に幸せにはなれないってことじゃないかなぁ」  そのまま、二人だけで再び会話が盛り上がり始めたので、私は黙って笑顔を作る。  どこまでも失礼だな、と思う。  際限がない。遠慮もない。矯正は叶わないだろう。手直しするには、あまりに手遅れ。  時間の無駄だな、と感じる。  自分の精神が、身体を置いてでも帰りたがっている。いっそ本当に分離してしまえたら、どんなに楽だろう。  もっと別のことに時間を使いたい。自ら進んで取り組もうと思える事に、時間と手間と労力を投資して妥当だと、それだけの価値があると、過ごした時間は有意義だったと断言できる、充実を得られるものにだけ私は向き合いたい。  気取られないように深呼吸。  また思考が逸れ始めている、と察知。  逸れもするだろう、と自分に言い訳。  この手の集まりに私は向いていない。本来であれば、したいとも思わない。  お洒落なカフェでのランチ。そのまま居座り、値段の張る紅茶を飲みながら中身のない談笑を続ける。頼めるメニューはケーキばかり。私は塩味のポテトが好きだから辛い。  この場所も、雰囲気も、お喋りも、精神に合わない。来るたび思う。  私は紅茶よりもブラックコーヒーが好き。ティーカップよりも、マグカップで飲みたい。  結合構造的に脆弱で不安定な硝子テーブルよりも、実験室にある耐熱耐薬品耐水加工が表面に施された、無骨でどっしりとしたテーブルが好き。  甘いものより辛いものが好き。激辛カップ拉麺を買って部屋へ帰り、辛さに独りのたうち回るのが好き。  ケーキよりもピザが好き。片手で掴んで気軽に食べられる物が好き。  芸能ゴシップや隣人の噂話より、数値解析のデータ検討や、モデルケースの比較表と暗い部屋で睨めっこしている時間が好き。  コーヒーと冷えたピザをお供に研究室へ居残り、日付がいつ回ったのかも気づかないままタスクをこなし、レポートを書く。そんな働き方が好き。  真逆なのだ。  全てが、致命的に。  恋しい、と感じる。  焦がれている、と分析。  研究室を離れてしまった、もう戻れない、間違えた、と。  そんな後悔の気持ちばかりが、この一年で募り、積載している。  できることなら戻りたい。どうか叶えて欲しいと他力本願に、甘えた望み方で呻いている。  けれど、この場で内情を吐露しても、絶対に共感してもらえないことは明白。 【そんな貧乏臭くてつまらない生き方、止めて正解だよ】 【そんな生き方、女を捨てているよ。今の方が幸せなはずだよ】 【稼ぎの良い旦那を捕まえたのに勿体ないよ】 【理系女子なんて今時流行らないよ。交流とか会食とか、上品なことに目を向けなよ】  返答の予想がつく。一方的に決めつけられ、一笑に付されてしまうだろう。  共感できない、可笑しなこだわり、と切り捨てられる。冷たい返答を足元へ転がされて終わり。私の理想は打ち止めとされ、かき消される。語らせる価値はない、検討にすら値しないと、無慈悲の裁定が下る。如何様の訴えも認められず、根拠に基づく理屈など存在せず、興味がないから、よく分からないから、という薄弱で脆い言葉で突き放される。  論理や学問は、いつからこれほどに軽んじられてしまうようになったのか?  知らないことを学ぶ姿勢、世界の成り立ちや、あらゆる概念、法則、性質への解明意欲は何故、疎まれるのか?  私には、それが分からない。その感覚が理解できない。  知らなくてもいい、分からなくても困らないから、面倒臭いから、という諦めに共感ができない。手離すその様が、背を向けるという選択が、私にはよほど異質で恐ろしく感じる。思考と知識を捨てるという真似は、人間らしさの放棄と同義では?  最近の流行りは、SNS等で自身の幸福な近況を拡散し、よく知らない人達と交流を持つことらしい。高い値段で会食と出会いを重ね、その行為が自己研鑽であると宣言する。同性・異性を問わず、一方的な評価と価値観の押し付けをし、品定めを行う。何故そのような真似をするのかといえば、それが流行りだから、と返されるばかり。  流行りでないことはつまらない、異なる価値観を持つ者、流行り以外のものへ時間を使い、取り組む者は攻撃の対象とすらみなされる。  何故か?  調和を乱すからだ。  皆で創り上げた輪を乱されることが、多数派は我慢ならないのだ。  その調和の輪に、はたしてどれほどの価値があるだろう?  何の役に立つ? どんな意味がある? 労力を投資し、他者を攻撃して、派閥を構成し、時間を消耗してまで守るべき財産だろうか? そこに信念はある? 本当に?  精査などしていないだろう。正しさや意味の有無など考えもしていない。言ってしまえば、集団心理に起因する連鎖反応、応答連帯意識に支配されているに過ぎない。意志に基づく行動ではない。ただの反射行動。  そんな考え方や価値観が蔓延している事実を、悲しく、虚しく、恐ろしい、とすら思う。できるだけ距離を置きたい。  そんな、肌に合わないと感じる情念の渦中に、いつの間にか私はいたのだ。  踏み込んでしまった事実に違和感を抱いている。  私は、ここに居てはいけない人間。  ものの見方、感じ方、捉え方、此処に居る人達とは全てが異なるのだから。  どうして私は、いつの間に迷い込んでしまったのだろう?  最近はずっとこうだ。毎日、自問して、自答して、その繰り返し。  悩み続けた先に待つのも、自問ばかり。  必然の帰着。  因果の巡り。  あらゆるものを自分の胸に仕舞っていく。収納することで、自分の視界から消している。そうするしかない。内に秘めたまま、言葉に変換しない。現状、これ以外に対処法がない。こうしておくことで日々は穏やかに過ぎ、私を取り巻く関係は円滑な形で維持される。波風を立てずに大人しくしていること、他人から求められる姿を演じることが今の私の役目であり、そうすることが仕事と同義。  いや、こんなもの、仕事とは呼べないか。  仕事のように、やりたくない要素が散見され、不本意で気の進まない役割を求められる点、上下の立場が形成されている点は似ているけれど、文句も言わずそれらをやり遂げたとして、しかし報酬は払われない。得られるものがない。生産性が無い。利益を生み出さない。凌ぎ、躱しているだけ。これでは無いのと同じ。いないのと同じ。静かにしているだけ。耐えているだけ。実益にならないものを仕事とは呼ばない。  仕事が好きなわけではない。私は仕事至上主義な人間ではないし、どちらかといえば、仕事と名の付くものが嫌いな質だ。  私は、仕事ではなく、研究が好きなだけ。  自分の興味のあるテーマについて調べ、検証し、記録し、積み重ねと運が味方をしてくれたら、発見を得られる。納得の為に追求する。小さな答を得て、小さな満足を繰り返す。これが楽しい。その為の作業が好き。インプットしてきた知識が役立つ瞬間が、唐突に出現してくれることが嬉しかった。  そうした過程で、肩書きや役職が付いてしまうなら仕方がない、と割り切れた。必要な資格を取り、成果を発表し、多少目立つことも受け入れた。本当に好きなことを続けていられるなら、多少の無理など苦ではない。頑張ろうと前向きに臨めるし、実際に頑張れた。必ず成果を出します、任せて下さいと胸を張って応えられた。  学問の追求と、大学で働くことは、私にとても合っていると断言できた。故に、大学院まで進み、研究室に残れるよう、テーマを決めて論文を沢山書いた。採用されたのは極一部だったけれど、それでも嬉しかった。私の全てを費やしたものが多少でも採用された。認めてもらえたのだ。挑戦と失敗と敗北と諦め、困難な道ばかりが展開される学問という世界の中で、私が見つけ出し、選択し、検証したものに価値があると評価してもらえた。  最高だった。  それなのに、嗚呼……。  どうして手離してしまったのだろう?  最高だと浮かれていた時期だったから?  冷静な判断ができなかった?  あの時期は、世界の全てが薔薇色に見えていた。  そのせいで、違えてしまったのか。  でも、それは結局、自己責任。  私自身が選択したこと。  強要されたり、騙されたり、脅されたりしたわけではない。  求婚に、私が頷いたから。  交際していた彼と一緒になることを決めた。  だから私は、妻になった。  そうして私は、大学を辞めた。  それが、私が此処に居る理由。誰のせいでもない。  強いていえば、私のせいなのだ。  テーブルの向こうに並ぶ二人が連れ立ってお手洗いへ向かった。  ソファ席には私と、私の親友だけが残った。  長く溜息。  とても疲れた。  化粧室内では今頃、私への意見や指摘、不毛な詮索や修正案が提示され、先程まで交わされていた議論の続きがなされているだろう。本人の前では口にできないような、より深く、より主観的で、より前衛的な主張が展開されているとの想像は容易。  私は自分の思考にブレーキをかけて、強制的に切断する。こうした過負動作で余計な労力を使うから疲れるのだ。要所で排熱してやらないと熱暴走を起してしまう。 「ひーちゃん、大丈夫?」  私の隣、二人掛けのソファに座る親友の浜柑沙子(はま みさこ)が聞く。  「ええ、大丈夫よ。ごめんなさい、気を遣わせてしまって」 「私には気遣いなんてしなくていいよ。ほら、さっきからずっと、姫ちゃん、って呼ばれてたの、あれ、嫌だったでしょ?」 「ええ、実は、そうなの」  私は素直に認める。 「でも、もう学生じゃないのだから、名前の呼び方一つを気にもしていられないわ。ねえ、むしろ私、大丈夫だった? 顔に出ていなかった?」  私は親友へ顔を向け、淑やかな笑みを作ってみせる。半分おふざけである。 「いつも通り完璧な対応だったよ。でも、そういう時のひーちゃんって、やっぱり無理をしているでしょう?」 「嗚呼、私にとって最大の理解者は貴女だけよ。いつもありがとう」  言いながら、私は親友の手を取り、軽く握る。 「今年で十年になる付き合いだからね。任せてよ」  握った片手を、みーちゃんも握り返してくれる。  私達にとっての挨拶。互いを認め、讃え、敬い、慰める際の握手。 「みーちゃんは大丈夫? ランチを食べ終えた辺りから、ずっと黙ったままだったから、私はむしろ、みーちゃんが心配だったのよ」 「私は平気。相槌だけで、むしろ楽だった。でも、そのせいで、ひーちゃんが話題の中心になっちゃったから、ごめんね」 「いいのよ。気にしないで」  私は彼女の肩に軽く触れながら応える。みーちゃんはいつも優しい。 「それにしても、もう十年になるのね。改めて、時間の積み重ねを感じるわ」 「それだけ仲良くなれたって意味? それとも、大人になっちゃった、って意味?」  円柱状のグラスその中身のレモネードをストローで上品に飲みながら、親友が聞く。 「う~ん、両方かしら。あまり考えずにものを言ったわ」 「良かった。いつものひーちゃんだ」  みーちゃんは笑いながら続ける。 「女子高入ってすぐ、同じクラスになったのが最初だよね。あの頃は毎日一緒に登校して、遊んで、勉強して、楽しかったなぁ。今もこうして一緒に居られるし、変わらず幸せだけど、老けちゃうのだけがネックかな」 「あら、貴女は全然変わってないわよ。可愛らしいあの頃のまま、素敵な貴女のままだもの」 「ありがとう」みーちゃんがはにかむ。 「ファッションの好みは変わったわよね」私は告げる。 「うん、それはある。あの頃はパーカーばっかり着てた。今はね、カーディガンが好き」  みーちゃんは着ているカーディガンの襟辺りを人差し指で撫でつつ応える。 「ひーちゃんは、ちょっとだけ変わったよね」 「えっ? やだ、私、老けた?」 「ごめん、今のは、私の言い方が悪い」  みーちゃんは笑いながら首を左右に振ってから続ける。 「高校生の頃のひーちゃんは、前のめりだった。目が真っ直ぐ前を向いてて、足取りもしっかりしてた。毎日勉強を欠かさなくて、新しく覚えたことを笑顔で私に語ってくれた。そのおかげで私は、ひーちゃんと同じ大学に受かった。本当だよ。自主勉強だけじゃあ追いつけなかった。大学に進学してからも、大学院に上がってからも、ひーちゃんは毎日、活き活きしてた。徹夜した疲れた顔を何度も見たけど、いつも楽しそうだった。私が研究室にお邪魔したこともあったよね。その時のひーちゃんも楽しそうだった。今より、ずっと」 「お見通しね」  私は苦笑いしながら告げる。 「親友だからね」  そう返してくれながら、みーちゃんはテーブルの下で再び、私の手を握る。  温かい、と感じる。  思いやりと的確な理解が、私の心を癒す。 「話したいことがあったら、私、ちゃんと聞くからね。愚痴でも、躊躇うくらい些細なことでも、遠慮せず相談して。独りで抱え込まないこと。いい?」 「ええ、分かった。ありがとう」  微笑んで応える私の顔を真っすぐ捉えて、みーちゃんは淑やかに頷いた。  優しい眼。淑女という単語が頭に浮かぶ。まさにそう。  長いお手洗いから、対面席の二人が戻ってきた。  何の話で盛り上がっているの? 二人だけで何を話していたの? と早速聞かれたので、私達の馴れ初め、同じ女子高のクラスメイトであったこと、高校での私達は、いつも連れ立って行動したこと、同じ大学へ進学したこと、私は大学院へ上がり、親友である彼女は就職したことなど、現在の生活に至るまでの経緯を事細かく説明した。思い出話がどうしても混ざってしまうため、度々、私とみーちゃんだけで盛り上がってしまう瞬間があって、そうすると対面席の二人は入り込めない。次第に対面席の二人は、スマートフォンの画面を確認する頻度が上がり、ついには二人同時に席を立ち、そろそろ時間だから、また一緒にランチしましょう、と形式的な挨拶の言葉を残して退店した。 「やり過ぎたかな?」  グラスのレモネードを飲み切りながら、みーちゃんが言う。彼女のこういう面が私は好き。 「あら、私達は少しばかり、馴れ初めのお話をしただけよ」  応えた後、私達はくすくすと笑い合った。小さな声だったので、誰もこちらへ目を向ける人はいなかった。  カフェから出て、みーちゃんと二人、石畳の通りを歩く。  人通りは少なく、反対に、立ち並ぶ店内は賑わっている。  時刻は御昼下がり。様々なお店の中で、先程までの私達と類似した時間の過ごし方がなされているのかもしれない。  視線を上げると、雲一つない青空。  梅雨は明けた。もうすぐ夏が来る。  この間までは雨に降られて濡れないよう雨傘が必須だったけれど、今度は日傘に交代だな、と考えていると、みーちゃんが私の名前を呼んだ。  目を向けると、みーちゃんが私を見ていた。  柔らかい表情はそのままに、少しだけ真剣な目。あまり見たことのない状態だった。 「なあに? どうしたの?」  意識して爽やかな声を作り、聞く。 「今日、会ったら、話そうと思っていたことがあるの」  ざわり、とする。  自分の心が、予感を抱いていた。  透過率の低いグレーの雲が、私の胸に。 「私ね……プロポーズされた」 「え……? えっ? そうなの? すごい、おめでとう!」  私は驚き、次いで彼女を抱きしめる。  背中を撫で、軽く叩いてから身体を離す。 「あの彼からのプロポーズね?」 「ええ、そう」みーちゃんは頷く。 「そっかぁ。交際して、六年目?」 「うん、二十歳の時に告白されたから、六年目」 「良かったわね。本当に良かった。ありがとう、教えてくれて」  私はそう告げる。  事実、嬉しかった。  みーちゃんが交際している彼とは、私も何度も顔を合わせた。通っていた大学は別だったけれど、私とみーちゃんが取っていた授業はほとんど同じであったため、必然的に行動を共にする私が、その彼とお話をする機会は沢山あった。  みーちゃんが交際している彼は頭が良く、そして良い人。所作から言葉遣いに至るまで、あらゆる要素が柔らかい。惹かれるべくして惹かれ、交際に至った二人であると私は捉えていた。  その彼との結婚ならば、心から祝福できる。 「ありがとう。こんなに喜んでもらえるなんて」  そう溢す彼女は照れていた。目の下が朱い。実に分かり易かった。  ああ、良かった、という安堵。  先程までの不安は消え……不安は、あれ? では、あの予感は……?  どうして私は、警戒したのだったか?  だって、告白の中身は、プロポーズだったのだから……喜ばしいことではないか。素晴らしい展開だ。あとは結婚式と、実際の入籍と……。  気づいて。  視線を上げる。  彼女の目が、私を見ている。  私が気づいたことに、彼女も気づいていた。 「彼、外資企業勤務よね?」 「ええ」みーちゃんは頷く。 「式は、国内?」 「いいえ、式は挙げないの。このご時世だし、お金のこともあるから」 「そう」私は頷く。  短い沈黙。  風が凪いだ。  まるで慰めてくれているかのよう。 「いつ、出発するの?」  そう聞くと、みーちゃんは微笑んだ。悲しそうな笑み。 「やっぱり、ひーちゃんは賢いね」 「これは、関係がないわ。親友だから、分かったの」 「そっか。うん、そうだよね」  みーちゃんは頷き、言葉を続けた。  教えてくれた、プロポーズまでの経緯を。  教えてくれた、今後の予定を。  教えてくれた、自分の感情を。  あらゆる詳細を含んだカミングアウト。  結婚することが決まった、という告白。  大学からずっと交際してきた彼と一緒になる、という報告。  同時に、彼の仕事の都合で、海外へ移住してからの入籍となる。  移住の提案は、プロポーズの言葉の次になされた。行先はアメリカ。  どうか付いて来て欲しいと、真摯かつ穏やかに、でも、彼にしては珍しい頼み方だったそう。  彼も、みーちゃんも、海外へ出ても問題なく生活できる。彼の英語の習得練度は、私は横で見聞きした程度の認知だけど、大学時代のレベルでも、現地で特に支障はないだろう、という出来合いだった。最近は会っていないので未知数だけど、彼の職業柄、上達することはあっても劣化することはないだろう。  それでも、おそらくではあるけれど、みーちゃんの方が英会話に長けている。彼女は所謂、バイリンガルである。小学生の頃から英会話塾に通っていたし、彼女自身、英語が好きで学習に入れ込んでいたため、大学に上がった時点で、ネイティブ圏の人達と英語での日常会話がスムーズに行えるほどの完成度だった。  みーちゃん本人の意向としては、彼となら、どこで暮らすことになっても構わない、今、自分が就いている仕事にも執着はなく、辞めて向こうで別の仕事を探すことになってもいい、現地で自分の能力が、語学力を含め、どこまで通用するのか試す良い機会だ、と前向きに語った。  ただ、一点だけ心残りがあると。  私と離れ離れになってしまうことだけが嫌だ、と言ってくれた。  これまでとは比較にならないほどの物理的距離が空いてしまう、当然、気軽には会えなくなる、それだけが不満であると。  時間的猶予は、もうほとんどないらしい。  海外転勤、海外への居住、これらは彼が勤める会社都合で急遽決まったことらしい。彼も、仕事だから従うけど、あまりに突然の指示で正直困った、と溢していたそうだ。  いずれは日本に戻ってくるかもしれないけれど、それがいつになるか、現段階では全く不明であることも教えてくれた。  マンションへの帰り道を並んで歩きながら、私は話を聞いていた。  語られる情報を頭にインプットし、要所で頷き、反応してみせる。謝る彼女を諫め、謝るようなことではない、貴女が謝らなくてはいけないことなんて何一つない、一連の出来事は祝福されるべきで、とても素晴らしいことだと、私は言葉を返した。  みーちゃんが語り終えるのと、私達が住むマンションに帰り着くのが同時だった。 「ありがとう、教えてくれて。ここまでのお話、聞けて良かったわ。本当におめでとう」  マンションのエントランス前で、私はみーちゃんへ告げる。 「こちらこそ、聞いてくれて、ありがとう。一緒に喜んでもらえて、私、すごく嬉しかった」  みーちゃんは微笑みながら応える。 「今日はこれで解散するけど、また後日、私の部屋へ来てくれる? 二人だけで、結婚が決まったお祝いをしたいわ」 「ありがとう、是非お邪魔させてもらうわ。でも、高いケーキとか、お酒は無しでいいからね?」 「ええ、分かった。私達らしいスタイルで行いましょう」 「大賛成」  その後、二、三、言葉を交わし、私は近所の古本売買店へ化学雑誌を買いに行くことを告げて、エントランスのエレベータ内へ入る彼女へ手を振って別れた。  マンション前の通りへ出て、カフェのあった方向とは真逆へ進む。  驚き半分。  納得半分。  突然の告白であったことだけが驚き。  交際期間も充分長いし、そろそろ結婚の話が出ても良い頃ではないかと、ついこの間、みーちゃんと話をしていたこともあり、叶った、という安堵と納得感情が確かにあった。  おめでたい、実におめでたい。こんなに嬉しいサプライズは珍しい。  みーちゃんには幸せになって欲しい。本当に良い子なのだ。女性としても、人間としても素晴らしく、完成度が高い。人格者なのである。彼女以上に素敵な女性を私は知らない。  幸せになって欲しい。  私のようには、ならないで欲しい。  私と同じような状況には陥らないで。  彼女らしく自由に、伸び伸びと生きて欲しい。  離れ離れになってしまうことは私も悲しい。自分の身体の半分を失うようなもの。それくらいにはショックが大きい。  それでも、彼女が豊かで実りある将来を掴むためであるのなら、私は笑顔で送り出したい。あの子の幸せは、私の幸せだから。  真っ直ぐに進んできた道を途中で曲がる。  人気のない通り。所謂、シャッター街だ。  この通りの丁度中間位置に、行きつけの古本売買店はある。  はめ込み硝子付きの扉を開けて、店内へ入る。  店主のおじいさんが私の顔を認めると、こんにちは、いらっしゃい、と挨拶をしてくれる。もうすっかり顔馴染み。  挨拶を返してから、学術書籍が並ぶ棚前へ移動する。  棚の中身は、この前来た時とあまり変わっていない。少し残念。  理工学系の大学が近いためか、販売と買取の両方を行っているこのお店の本棚は入れ替わりが早い。それも、大学受験用の赤本や、大学内で参考にされるような学術文献、専門書籍、新たに論文として発表された内容をまとめた科学雑誌などが多く置かれている。これは、私にとって大助かり。最高と表現して差し支えない。ネットでも科学情報を検索して閲覧することはできるけれど、限度もあるし、閲覧制限がかかっている場合もある。より専門的な内容が知りたいと思っても、ニッチ過ぎて掲載されていなかったり、最先端であるが故、情報収集や掲載が追い付いていなかったり、記載内容の解説部分に初歩的な誤りがあったりする。勿論、紙媒体であれば誤りがないのかといえば、そういうわけではない。更新と修正が早いのはネット掲載の方。  つまり、ネットと紙媒体の両方で、私は科学系・化学系の情報を欲している、という贅沢である。  元々、読書が趣味だったし、大学では化学科所属、化学が専攻テーマであった。理由があって大学や研究、科学と距離が空いてしまった者は、このような手段で、好みの学問へアプローチを仕掛け、どうにか関わりを保とうとするのである。  ここでは、私が求める情報を比較的安価で購入することができる。読めるなら新品かどうかとか、本の状態は気にならない。重要なのは本の清潔さよりも、書かれているその中身。私はそう考える質。  テルル化合物についてのジョークが表紙タイトルとして採用された解説本が気になったので手に取り、ぱらぱらと捲って内容を確かめる。  急に、ぼつり、と。  水滴が落ちてきた。  売り物に落ちてしまったので、慌てて服の袖口で拭う。  また落ちてきた。  どこから? と探して、気づいた。  私の涙だった。  ああ、そうか。  濡らしてしまった本のページを拭いながら、ようやく自覚。  私は、寂しいのだ。  みーちゃんから結婚すると告白された時。  彼女から、ことの経緯を聞いている間も。  笑って見送り、手を振って別れた先程の時間。  私は、寂しさを感じていたのだ。  遅れて、放出された。  堪り、溜まって、ついに溢れた。  私は確かに喜んでいた。この気持ちに嘘はない。  親友の幸福を喜ばない者はいない。私は彼女を全力で応援しているし、彼女が私を頼りたいと望むなら何だってしてあげたい。どれほど困難な求めであっても構わない。それくらいには彼女を大切に想っている。  だからこそ、別れが惜しい。  喜ぶと同時に、内心で泣いていたのだ。  自分が泣いていると分からないほど麻痺していた。  離れ離れになる現実を受け入れられない。  偽りが差し挟まる道理はない。  胸に咲き、手渡した喜色の感情は本物で。  抱く悲しみは個人的。隠し切れない真実の色。  自分の胸の中だけのこと。晒してどうなる、という呆れ。  おめでとうだけを言わなくちゃ。  ぐるぐると、理性と気持ちが渦を巻く。  書棚の影で、私は静かに泣いた。  濡らしてしまったこの本は買わなくちゃ、と。  頭の隅で考えている、冷静なままの自分に呆れながら。  帰宅後、私はできるだけ急いで料理をした。  予定外のことが起きたため、時間配分に余裕がなくなった。けれど、冷蔵庫の中に保管しておいた昨日の残り物と、できあいの総菜を先日買っておいたおかげで、彼が帰宅するまでには、どうにか全品揃えることができた。  テーブルに完成した料理を並べ、リビングの椅子に座り、彼の帰りを待つ。  その間、先程購入した化合物に関する解説書籍を読む。良い時間の使い方だと思える。今の生活では、読書くらいでしか満足を得られない。それが問題。  玄関に鍵を差し込む音。  本を置いて椅子から立ち上がり、すぐに玄関へ向かう。  私が玄関前に立つのと、扉が開くのが同時だった。 「おかえりなさい」  私は笑顔で出迎える。 「ああ、ただいま」  この挨拶には、彼は応えてはくれる。にこりともしてくれないけれど。  彼が靴を脱ぐ間も、ネクタイを外しながら廊下を歩く間も、私は彼の鞄を受け取らない。その時々に彼が抱えている荷物にも触れない。  彼は、自分の私物に触れられるのを極端に嫌がる。これは、衣類から仕事道具、土産や郵便物に至るまで同様。本人が近くにいる場合、本人が直前触れていた場合など、特に嫌がる。触れても良いのは、彼が不在の時、つまり、彼の目に入らないタイミングだけである。なので、衣類の洗濯・乾燥は昼間に終わらせるし、彼のスーツをクリーニングに出した場合は、彼が不在のうちに受け取りに行き、綺麗になったスーツを、彼のクロゼットにそっと掛けておく。  あとは、彼が珍しく忘れ物をした時に手渡すくらい。この時だけは、彼も嫌な顔をしない。こだわりよりも、仕事や出先への影響が頭を占めているためだ。とはいっても、彼は完璧主義のきらいがあるため、忘れ物、置きっぱなし、などの状態で私物を放置することはない。もし見つけたら体調不良を疑うほど。こうした整頓癖が、私にはない管理意識であり、尊敬する彼の特徴であり、寂しく感じる一面でもある。  リビングに入った彼は、テーブル上の料理を一瞥。 「今日も完璧だね」  私の方を向き、そう褒めてくれる。 「ありがとう。召し上がりますか? ご飯をよそうだけで、すぐに……」 「いや、今日はいいよ」  彼はさらりと答えて、リビングを出る。  この後、彼はすぐにシャワーを浴びる。外出時に着ていた服のまま、帰宅後、長く室内を歩き回るのが嫌なのだ。不衛生で生理的に耐えられない、と結婚当初にそう聞いた。  脱衣所で髪を乾かした後は、寝室へ直行だろう。明日の仕事に備え、すぐ寝てしまうのだ。  いつものやり取り。  いつのもパターン。  幾度も経験した。  幾度も省みた。  作った料理を食べてくれる日もある。本当に稀だけれど。  私の役目は、この時間までに、一定クオリティの夕食を作ること。  それだけ。  彼の帰宅着に料理が完成していること。  それだけ。  味にはあまり関心を持たれない。料理のクオリティとはいっても、味・外見が崩壊していないこと、和食・洋食が混ざらず、明確であること、あまりに貧相なメニューでないことが、彼に認めてもらえる条件。  決定的な悪ではない。  専業主婦である自分の妻に、夕食を作って欲しい、という要望。  お金を渡し、こういう料理を作って欲しい、という要望。  普通のことだ。それだけならば。  人として間違ってはいない。  ねえ、悲しい、というだけ。  愛情の欠落が認知される。  作った料理を食べて欲しい。  食べてもらえるだけで嬉しいから。  全部でなくたっていい。残したっていい。  少しでいいから、一緒の時間を過ごしたい。  一緒に夕食を食べて、美味しいよ、って言ってくれるだけでいい。あまり美味しくないね、と言われたっていい。そこにはちゃんと意思があるから。私の作った料理への評価には、貴方の意思が含まれる。それならば、次は頑張ろう、と素直に思える。トライ&エラーは嫌いではない。失敗したり、高い評価でなかった場合でも、次に活かせばいい。私はそう受け止められる人間だから……。  誠実に向き合って欲しい。  躱されてばかりでは分からない。  流されてばかりでは得られない。  効率化された日々は、実に合理的。  最適化されたやり取りは、実に利己的。  まるで機械のように精密で違わない。安定している。  この、安定、という状態は維持が非常に困難である。  化学に関わっていたから私もそれはよく知っている。  合成した物質、生成した成分、出発物質と変質過程によって、対象の安定性は大きく変動する。由来する個々体差と環境条件の振れ幅に依存し、揺らぎが生じるためだ。  安定させるのは難しくて、だからこそ、どうにか安定させたいと試行錯誤を繰り返す。  一度、安定させることに成功したら乱したくない。可能な限り維持したい。その気持ちは分かる。  しかし、条件が異なる。  私は化学成分ではなく、人間だ。  ひとりの人間であり、ひとりの女。  寂しがりな性格の人間で、独りぼっちを嫌う人格である。  大学に居残り、夜中に一人でデータを記録したり、朝までキーボードを叩いて論文を完成させるため、孤立無援で戦うなどであれば、独りでも耐えられる。何故かといえば、研究は私の趣味と同義であり、論文や報告書の作成、正確なデータの収集、幾度もの検証は仕事であるためだ。最初から援護を期待できないという覚悟のもと、行っている。構わない、と納得して臨んでいる。この差異が、自分は孤独だ、と感じるかどうかの境界を作り上げている。  こうした境界条件は、夫婦関にも取り込まれて然るべきだろうか?  多少か、部分的であれば理解できる。円滑な関係を長期に渡り継続するために規律を設けることは有効であり、常套手段と評価できる。  しかし、それでも……。  もう少しだけ、愛して欲しい。  求めるのは、それだけ。  余計なことをしなくない。疲れているから、仕事で嫌なことがあったから、自分のペースで活動したい。もしくは、妻らしいことをして欲しい。部屋を掃除しておいて欲しい。自分が帰るまでに夕食を作っておいて欲しい。寝ずに起きて待っていて欲しい。会食や接待があって食べられないこともある。勿体ないことをするかもしれない。  そんなの全部、私は全然構わない。  無下に怒ったりもしない。物事には理由がある。選択には動機がある。理由さえ話してさえくれたら、私なら理解できる。共感もできる。納得したうえで合わせることは苦痛ではない。それが夫婦というものだ。私そう考える。  分かるよ。  こだわりも、仕事の大変さも、生きるうえで、ままならない、と感じる数々の要点、不条理は、私も知っている。私も私なりに経験してきたから。  分かるから。  だから。  そう言って欲しい。  言葉にして欲しい。  多少、気分次第で言動が変化しても構わない。機嫌が悪い日があったっていい。怒ってくれたっていい。それが人間だから。  会話しないより何倍も良い。仕事の愚痴を聞かせてくれたっていい。どんな仕事をしているのかが分かるから。どんな職場環境なのかを知れるから。普段、どんな業務を任されていて、何が得意で、何が苦手か分かるから。  科学関係の専門的な質問をしてくれたっていい。そんな機会があるか分からないけれど、私なら正確に、簡潔に、面白可笑しく答えられる。専門用語が出ても大丈夫。専門用語を知りたいなら即答してあげる。嫌味にならないよう、自慢にならないよう、言葉と態度、表現と口調に最大限注意しながら話すから。  だから……。  もっと、夫婦らしいことがしたい。  少しお喋りできるだけで違うのに。  今日あったことを互いに話す。それだけで、夫婦らしいな、と思える。  現状は、あまりにも寒々しい。  とても、夫婦とは呼べないよ。  同じ室内で暮らす隣人が適当? それとも離人?  だって、人らしさを欠いている。冷徹で、冷酷だ。  貴方の信頼には触れられず、形だけの関係で常に肌寒い。  交わす言葉は空虚の味がする。互いに大人なのだから、思考の言語化に割く労力なんて、知れたもののはずなのに。  こんなことがしたくて、私は大学を辞めたのではない。  私は、誰かの代わり? こんなの、私でなくたっていいじゃない。お金で雇ったハウスキーパでも同じことができる。私に固執し、私に求める動機は、私が貴方の妻である、という一点のみでしょう?  私という妻が、甲斐甲斐しく尽くしてくれる、その愉悦に浸っているだけ。私というトロフィを手にして満足しているだけ。私自身、自分にそれほど価値があるとは思えないけれど、彼にはどうにもそうらしい。でなければ、これほど管理したがることはないだろう。  私を家に置くことで自己評価を高めている。そういう使い方を選択し、実行している。  いつまで務めていればいいの?  こんなの、ずっと続けてはいられない。  私は一体、何の為に此処に居るの?  指し示された役割の為だけに生きる、それに同意させることが望み?  これは仕事? 私達の結婚生活は仕事なの?  望んでいない、こんなもの。  何処にも愛がない。  私は愛したい。  愛した上で愛されたい。  それだけが望み。  私って我儘?  独り善がりな痛い女?  世間を知らない理想主義?  愛して欲しいだけなのに……。  愛って、そんなに扱い難くて、真っ直ぐに求めてはいけないもの?  寂しいと、虚しいと、溢してしまうのは悪いこと?  届かない。  分からない。  嫌になるくらいに堅い、と感じる。  関係の手触り、見た目、漂う空気すら。  わだかまりだけが、確固たる形を形成している。  同じ人間同士で、籍を入れた男女同士で、こんな皮肉があるだろうか?  目を閉じて、首を振る。  責めたいわけじゃない。  壊してしまいたいわけじゃない。  分からないだけ。  考えても分からないという状態が、大嫌いなだけ。  考えても仕方のないことを考えている。分かってる。それでも、どうしても考えてしまう。実生活に直結した悩みだから無視ができない。  瞬き。  水滴。  驚く。  自分が泣いていることに気づかなかった。  また、泣くのか。  私は泣き虫なのか? もう二十六だというのに。  格好悪い。情けない。弱い自分が嫌だ。  強くなれたら、どんなにいいだろう。  でも、今は無理。  強くなるための努力をする元気もない。  溜息。  どうしたら……。  考え始めようとして、思考を遮断。考えたくない。今だけは。  料理をお皿ごと冷蔵庫へ収める。一部はタッパへ詰めて冷蔵庫へ。明日の私のお昼ご飯と、明日の夕食の一部となる役目。  システムキッチンの流し前に立ち、お皿を洗っていると、彼がシャワールームから出てくる。 「もう寝るよ。おやすみ」 「おやすみなさい」  私は微笑み、応える。  両目から流れる涙も、濡れた自分の頬も、そのままに。  彼は既に、寝室への扉を開けていた。  だから、気づかれなかった。  安堵か、不満か、どちらだろう?  心中には渦が巻いている。その正体は不明。  寝室へと消える彼の背を、私は静かに見送った。  朝は、彼より少しだけ早く起きる。  出勤する際の見送りと、朝に飲む彼のコーヒーを淹れておいて欲しい、という要望に沿った習慣。  眠い目を擦りながら服を着替え、髪を直してからキッチンに立つ。  淹れたばかりのコーヒーはマグカップに注いで卓に置く。手渡しは厳禁。コーヒーは絶対にブラック。これに関しては、私達の好みは共通している。  起きてきた彼がコーヒーに口を付ける。彼は朝ご飯を食べない。寝起きは胃が何も受け付けないのだ。この点も私と同じ。だから気が合った。大学在学中も、この話題で盛り上がった。あれも、もう遠い昔のように感じる。  コーヒーを飲み終えた彼は、すぐに仕事へ出る。  私は玄関まで見送る。  行ってきます、の言葉はない。  朝は極力会話をしなくないという。  いってらっしゃい、の言葉は告げる。  これは結婚当初に、言って欲しい、と頼まれたから。  返してもらえない言葉。  勿論、キスもない。ハグもない。  最後に肌に触れられたのは、いつ?  覚えていない。おかしなの。  可笑しくはない。  笑えない。  全然、笑えない。  毎朝、疑問が浮かぶ。  これが夫婦か?  これが男女のあるべき形?  冷たくて虚しい間柄こそが、愛の究極形?  結婚って、諦めながら過ごすこと?  私は、そうは思いたくない。こんなものが夫婦だなんて。  玄関を開け、彼が出て行く。  扉を閉めて鍵をかけ、溜息。  溜息なんて、つきたくないのに。  ふらつく足取りで寝室へ戻り、ベッドへ倒れ込む。  私は夜型人間だから、早起きはとても辛い。  大学時代から既に夜型の生活サイクルだった。大学院に上がると、それが加速した。昼に起きて、夜中まで研究室で作業して、院生室で明け方までPCに数字と文章を入力していた。そんな生活が長かったし、あのリズムが一番身体に合っていた。  毎朝、低血圧でふらつき、眩暈にも似た意識混濁に抗いつつ、彼のコーヒーを淹れるたび、そう思う。  正午過ぎに目覚めた。  今度はきちんとした足取りで洗面台まで移動して顔を洗い、歯を磨き、化粧水を塗り、日焼け止めを重ね塗る。  寝癖を直し、伸びた髪に櫛を通していた時。  ふと、思った。  伸びてて邪魔だな。  髪、切りたい。  小さな衝動だった。  だめ。  駄目よ。  切っちゃダメ。  どうにか堪える。  彼は、長い方が好きだから。  伸ばして欲しい、と頼まれたから。  せっかくここまで伸ばしたのだから。  我慢しよう。  大学の頃の私は、ショートヘアだった。  PCと睨めっこをする時間が長いこと、主な作業場である散らかった院生室内を頻繁に歩き回ること、当時借りていた部屋と大学を頻繁に往復するせいで、身支度の時間が惜しいこと、時期によっては本当に時間がなくて、毎日シャワーを浴びることができなかった。髪をケアする余裕もなかった。故にあの頃の私の髪は、長い時でもショートボブくらい。美容院で毛量を限界まで梳いてもらい、非常に軽くて手入れが楽な髪型だった。  伸ばすようになったのは、彼と交際を始めてから。  彼から、長い黒髪が好きだ、大和撫子のような外見が好みだ、と聞いた私は、その理想に沿えるよう、自分の外見を調整した。やること自体はシンプルで、日焼けしないように気をつけ、髪を染めずに伸ばすだけ。これだけだったから、合わせることに抵抗が生じなかった。  特に強要されたわけではない。彼の理想像を聞いた私が私の意志で、彼好みの女に成ろう、と実行したまで。  恥ずかしい表現だけど、あの頃の私は乙女だったのだ。  あの時点で、二十を過ぎていたけれど。  恋をしていたから。  結婚の話も出ていたから。  彼のことが好きだったから。  好きな人の理想には寄り添いたい、できる限り応えてあげたい。  私はそう考え、すぐに実行してしまう人間。  尽くしたがりなのだろうか? それか依存し易いのかもしれない。  でも、あまり後悔はしてない。  全部含めて良い思い出。私自身も楽しんでいたから、嫌な思い出では全然ない。記憶の悪性変質は起きていない。  長続きは無理かな、という予感は、正直ある。  どうしようもない溜息と共に、目を閉じてしまいたくなる。  触れる髪の感触で、現実へと回帰。  鏡の中の自分を見る。  無表情。  怒った顔をしていると想像していたから、意外。  過ごした時間の集合体。  懐古に浸り、心理は揺れて。  事実の記憶ばかりが私を刺す。  生じるものは怒りではないらしい。そう学んだ。たった今の出来事。  捨てる必要はない。仕舞っておけばいい。  頭の奥で保留。  取っておく。  そのままに。  平行線なこの生活と同様に。  最低限の家事と掃除を済ませた後、食材を買いに出かけた。  それなのに、お店の方向が同じであったため誘惑に負けて、いつもの古本売買店に立ち寄ってしまう。  昨晩、ネットで見た『三元触媒の酸化還元反応と排ガス処理技術の最先端』という書籍が置いてあるかを確かめたかった。私の悪い癖だ。一度気になったら自制が利かない。  建物の中へ入り、店主のおじいさんに挨拶をしてから、化学系の書籍が並ぶ書棚へ移動する。  棚の前に、既に人が居て、少し驚く。  この店内で他のお客さんと鉢合わせるのは初めてのことだったので、多少、面食らった。  書棚を前に立っているのは若い男性。私と同じくらいか、少し歳上くらい。片手でかき上げたばかりのような髪型。明るい茶色の髪。ロック系の音楽が好きそうだな、と想像してしまう恰好をしている。男性の流行りには詳しくないけれど、ひと世代ほど古いのではないか、と感じる組み合わせとセンス。でも嫌いではない。背が高くてすらっとしているから、ロック系の服がよく似合っている。  音楽関係の仕事に就いているのだろうか? そう見える。ただ、ライヴハウスの壇上に立つアーティストという感じではなく、裏方で機材等の準備するスタッフ側の人間に映った。もしくは路上でギター片手にバラードを歌っていそうなイメージ。失礼だろうか? 偏見だろうか? そう受け取られてしまったらいけないので、この第一印象は胸に仕舞っておく。これら印象や想像は、あくまで私の妄想。不鮮明で曖昧なもの。現実には無関係だ。  目の前の彼は、ぼんやりと書棚を眺めているのではなく、一冊を手に取って開き、真剣な目をページへ落としている。私が近づいても目を上げないことからも、しっかりと中身を読んでいると分かった。  注視してしまう。  この店内で、初めて他のお客さんと出くわしたから、という理由もある。  でも、それ以上に、およそ化学とは無縁そうな外見の男性が、真剣に化学系の書籍を読んでいるというギャップに意識を惹かれていることが要因であった。自分の好きな分野に、他の誰かも興味がある、というのは無条件に嬉しいもの。  さすがに長く見つめ過ぎたらしい。  彼が視線を上げて、こちらを見た。  目が合ったので、私は会釈をしつつ、こんにちは、と挨拶を述べながら、彼の側の書棚へ歩み寄る。  男性は柔らかく微笑み、こんにちは、と挨拶を返してくれた後、一歩下がり、空間を空けてくれた。優しい人。  書棚をざっと眺め、目的の本を探す。  いくつか他にも興味を惹かれるタイトルを見つけてしまい、捜索意識を乱されながらも、目的の背表紙を見つけた。あったらいいな、とは考えていたけれど、本当にあるとは思わなかった。このお店は素晴らしい穴場である。  手に取って開き、目次を斜め読みして、概要と結論を理解。これはこれで面白そう。着眼点がユニーク。けれど残念ながら、私が興味を抱いた要点の詳細解説は期待できそうにない。関心のある対象分野が合致していても、アプローチ手法が異なれば、その時点から別物の研究として評価せざるを得ない。 「惜しいなぁ……」  いつものように呟いてしまってから気づく。  しまった。今日は、棚の陰に独りではない。  本から視線を上げると、やはり彼がこちらに目を向けていた。  急速に恥ずかしくなる。独り言を我慢できないのも私の悪い癖だ。 「排ガス処理の最先端、っていう口上の割に、最新の手法が盛り込まれていなかったから?」  すみません、と告げようと口を開きかけた私よりも先に、彼がそう聞いてきた。 「えっ? あっ、ええ、そうです」  私は驚きつつも頷く。彼が述べた通りの感想を抱いたからこその先程の独り言であったからだ。 「あの、お詳しいですね。失礼ですが、ご専門ですか? 大学の方だったりとか」  大変気になったので、今度は私から質問してみる。 「いいえ、どちらも違います。ただ、大学時代の専攻が化学科だったのと、僕もつい先程、その本の中身に軽く目を通して、同じ感想を抱いたものですから」 「そうだったのですね。すごい偶然」  納得できたので、私は頷き、微笑んでみせる。 「貴女は? 大学生さんですか?」  爽やかな笑顔で彼が聞いた。  しかし、その質問に私は笑ってしまった。 「良かった。私、まだ若く見えるのですね」 「えっ? ああ、すみません。助教の方でしたか?」 「いいえ、違います。私、大学は既に卒業して、主婦をしております」 「そうでしたか。すみません、失礼をしました。先入観でものを言ってしまいました」  彼が軽く頭を下げながら言う。 「失礼は受けておりませんよ。実年齢よりも若く捉えていただけることは、むしろ嬉しいです。それに、貴方の想像は半分当たっています。私、一年ほど前までは大学におりました。修士課程を修了するまで、大学院生だったんです」 「そうですか。ええ、そのような雰囲気を感じたもので」 「雰囲気ですか?」私は笑いながら聞く。 「理知的は雰囲気です」 「お上手ですね」 「いえ、本当ですよ」  そのまま、私達は立ち話をした。  雑談内容は、通っていた大学はすぐ近くの大学ですか? いいえ、別の大学です、という当然の疑問から、互いが専攻していた化学科の話題へと派生。私の専門が、元素作用、環境条件による素体形質変化、反応性や化合物の分子運動から異性化についてであったのに対し、彼は、既販の化成製品分析などが主であると判った。これは、既存の化成製品、防虫スプレや防腐機能を発揮する市販化学薬品等の有効範囲、有用年数、劣化の速度と環境条件の影響度合いの精査、人体への影響・有害性を調べるテスタのような役割を担う分野である。  同じ化学畑出身ではあるけれど、研究テーマとして据えていた系統軸が異なる。そこが新鮮だったし、話をしていて面白いと感じられた。自分の知識が及ぶ範囲の物事で、けれど自分が知らないことを知っている人が目の前にいる。これは実に有意義な機会である。話も弾むというもの。  専門用語を交えた、好奇心からの質問をいくつか交わした後、数年前にノーベル賞を獲った、量子ドットについての個人的な見解を、恐れ多くも互いに述べて、しかしすぐに笑い合った。思いのほか、すぐにぼろが出たからである。お互いに化学的観点はともかく、量子力学は専門外で、興味はあっても、対応する用語や基礎理論が頭に入っておらず、それらしく語ることすら困難であった。それなのに二人して、それらしく言葉にしようと、つまり恰好をつけて語り合おうとしていることに、すぐ気づいた。露呈したその小さな意地が可笑しかったのだ。  会話の中で彼は、私のことを沢山褒めてくれた。  知識量と専門に据えていたテーマを、大学院まで上がり学問へ取り組んでいた過去を、学びたい、研究が好きだ、という私の意気込みが素晴らしいと、本当に大袈裟なくらい褒めてくれた。  素直に嬉しかった。こんなに素直に褒めてもらえることはそうない。直近で同じ熱量の言葉をくれるのは、それこそ親友のみーちゃんだけだった。  どうして博士課程に上がる前に辞めてしまったのですか、と聞かれたので、丁度その時期に結婚しましたの、と答えると、彼は素直に頷き、それ以上の追求をしてこなかった。  私は、彼のこの対応に好印象を抱いた。  勿体ない、結婚しても続けることはできたではないか、せめて博士まで取ってから辞めたら良かったのに、などの『たられば』を告げられなかったことに安堵を覚えた。大学を辞める際にも、辞めてからも、知り合いや、無関係の近所の人々から、わりと好き勝手に散々な言い方で告げられた過去があったので、今回のようなあっさりの対応が何より心地良い。加えて、過剰な詮索を避けつつ、現行の話題に重点を置いてくれること、私との会話そのものを大切にしてくれるトークスタイルを素晴らしい、と感じた。  大いに安らげる。  純粋に、楽しい、と喜び笑える。  専門的な内容の会話もそうだけど、このような対話形式から長らく離れてしまっていたので、感動して涙が出そうになったほどだ。  しかし、これ以上長く店内でお喋りをしていると迷惑になると考え、私は適度なところでお話を切り上げ、彼へ向けて、スーパーへ買い物に行くと伝えた。  彼は簡単に頷き、音響スペクトル反射に関する解説本を一冊購入した後、私と共に古本売買店から出た。聞けば、彼はこれから電車に乗るのだという。  私の目的地である食品スーパーと、彼の目的地である駅は、途中まで方向が同じであるため、私達は会話を続けながら並び歩いた。  とても楽しかった。  同系統の分野を学び、化学に対して熱量と関心を持つ人に会えたこと、こうしてお話ができたことを幸運に想う。  ああ、自分はこういうものを求めていたのだな、と自己分析し、また自覚することができた。  ここ一年間で、最も貴重な体験だと評価して差し支えない。  この会話を楽しいと思いつつ、しっかりと楽しみながら。  このまま別れてしまうのは惜しいな、と発想してしまう自分を認めてもいた。  相手は、私と同じく、本格的に化学へ関わった経験のある人間で。  共通の話題と近しい知識域を有する識者で。  ジェントルで優しい人格の持ち主で。  そして、男性である。  外見的な観察だけで想像した、曖昧で確証のない印象だけど、おそらく私と同じくらいの年齢の男性。  私が今やっていることは、あまり褒められた振る舞いではないだろう。  たとえ、純粋な知識交換と建設的な議論で熱が上がり、夢中になっているだけで、下心など絡んでいなかったとしても、私自身が既婚者である以上、許容や肯定はされづらい行いであると評価できる。私自身がどうこうというよりも、客観的に見て、周囲からの目を通してどうか、という意味である。  いらぬ誤解を招くような素行はするべきではない。  誰もが同じようなことを言うだろう。  大人には、常に正しさが求められる。  それが、大人に成る、ということ。  それが、大人である、という証左。  分かっている。  失礼な真似をするつもりはない。  身勝手な真似をするつもりもない。  自戒に則り、自制するだけ。  縛り付けるのだ。自分自身を。  私は、彼の妻だから。  余計なことはしない。  いけないことはしない。  紛らわしいこともしない。  従い、静かにして、保つだけ。  今の生活を、これらからも、この先も。  だから、これは、その為の息抜き。  僅かばかりの休息。必要なインターバル。  話しながら、意見を述べながら、私は笑う。  楽しいから、可笑しいから、自然体で笑える。  はしたないかな、なんて抑えつつ、それでも声を出して笑ってしまう。楽しさのあまり。  道の分岐が近づいてくる。  片方はスーパーへ、もう片方は駅へと続いている。  どうして、スーパーなどへ行かなくてはいけないのだろう? という考えが一瞬よぎる。  ダメよ。  胸の内で首を振る。  もう終わり。  ほら、切り替えなくちゃ。  分岐地点で立ち止まり、私達は別れの挨拶を交わす。  もし、またどこかで会えたら、今度は事象の地平面について話しましょう、と彼は言ってくれた。  半分ジョークだろう。でも、彼の知識量なら、本当に面白い意見交換ができそう、とも思った。  私は、ええ、是非しましょう、また、どこかで私を見かけたら、遠慮なく声をかけてくださいね、と返し、頷いてみせた。  笑みを交わし、挨拶の言葉を述べて。  私達は別れて、歩き出す。  本当にまた会いたいな、と思った。  ああ、楽しかった、と独り笑い。  専門的な用語で、気を遣うことなく、それこそ対等な立場で、同じ規格のテーマ性で、現実的かつ建設的な意見交換とディープな議論ができたのは本当に久しぶり。  また会えるといいな。  視線を空へと上げながら、何度も思った。  上を向いて歩くのも久しぶりだな、なんて気づきながら。  スーパーで食材の買い出しを終えて一度帰宅し、晩御飯の下準備を終わらせてから、夕方に再び出かけた。  今度の外出は、クリーニングに出した彼のスーツを受け取るのが目的。  近くのクリーニング店がついこの前、閉店してしまったので、少しばかり遠いお店へ歩いて向かう。  普段はあまり通らない道を行く。  夕日に包まれ、緩い風に吹かれながら。  幾度かの深呼吸を経て、短期的な自由を感じ取る。  散歩気分でいられるから、こうした移動時間は嫌いではない。  惜しむらくは、すぐに終わってしまうこと。  現実に生きている以上、現実に帰らなければいけない。  秒数を経たのだから、相応の時が過ぎる。  普遍の法則。  例外はない。  到着したお店の中へと入り、会員証を見せ、番号を告げて、綺麗になった彼のスーツを受け取る。代金を支払い、店舗を後にした。  必要な物の買い出しは終えているし、古本売買店にも既に立ち寄った。  あとは、これを持って帰るだけ。  こうしてまた、一日が終わる。  残すは、ご飯を完成させて、彼を出迎えること。  その後は、いつも通り。  いつまでも、いつも通り。  視線が空から、地へ落ちる。  比例して、気分も落ち窪む。  可哀想な自分。  自分勝手な自分。  自業自得な自分。  その全てが私自身。  どうしようもない。  どうにもならない。  どうにかしようとしないから。  無理に持ち上げ支える、視線の先。  本当にたまたま、目を向けた先の。  赤信号で停車したタクシーの後部座席に。  彼が乗っていた。  驚き。  疑う。  瞬き。  首肯。  彼だ。  妻である私が見間違うはずもない。  朝、見送った際のスーツ姿で。  同じく後部座席にいる誰かと談笑している。  久しぶりに見た、彼の笑った顔。楽しそうな表情の彼。  胸がざわつく。  どうしたの? 嫉妬? 不満? 苛立ち?  自分の胸の内の出来事なのに、正体は曖昧。  分からないの? 判りたくないの? それすら定まらない。  信号が変わり、タクシーが動き出す。  見送るつもりで、目で追った。  しかし、そのタクシーは、すぐ向かいの建物の下で停車する。  降りてきたのは、やはり彼で。  彼は、知らない女性と一緒だった。  てっきり仕事関係の相手と相乗りしているのだと思っていた私は、思わず立ち止まり、観察してしまう。  相手は若い。二十歳くらいだろうか。真っ白の肌に、金色のロングヘア。露出が高くてタイトな、絶対に私が着ない系統の服に、ブランドバッグを手にしている。  どう考えても、後輩職員や、取引先相手の社員ではないだろう。勤務時間中の公務員があのような外見で立ち回るはずがない。取引先の社長令嬢などへの接待? いや、彼の役職的に、しかもこんな時間から、仕事上の理由で相手先の女性をエスコートする役割を任されるとは思えない。社外交的な依頼、コネクションを作成するようなポストではないし、公務員という立場上、そのような真似は基本的には御法度だったはず。水面下ではあり得るかもしれないけど、なれば尚更に、このような時間帯から、彼のようなポストの人間が、派手な格好の若い女性と同伴で行動するのはおかしい。目立つばかりでメリットがないではないか。  懸命に考え、可能性を精査。  誤りがないよう、早とちりしないように。  でも、私の努力は、すぐに無へ帰した。  その金髪の若い子は、私の彼へと、しなだれかかるように身を寄せて。  彼は、その子の頭を撫でて応じ、後ろ髪を軽く梳いてから腰を抱いた。  仲睦まじく、建物の正面扉から中へと入って行く。  私は、一度だけ瞬き。  ゆっくりと目線を上げて、建物上層に設置された看板を見る。  場所が判ると同時に、乾いた笑いが出た。  こんな時に、口角がしっかり上がってしまう自分が一番、可笑しい。  どうして笑っているの?  さあ、自分でも分からないわ。  どこまで?  どこまでかしらね。  どうして?  どうしてかしらね。  叫ぶ?  ダメ、我慢。  我慢?  どうして?  我慢ばかりの理由は何?  私だけ、私ばかりが。  悲しい、とは感じなかった。  悲愴、虚脱、苦渋、これら感情は期待在ってこそ芽生えるもの。  これまでの生活に期待があった?  望みは? 可能性は? 未来は? いいえ。  思い返しても見つけられない。あまりに停滞ばかりだったではないか。  私を自分の思い通りに管理しておいて、自分は私以外の女相手に欲をぶつける。  矛盾しているではないか。  首輪を付けたがるのに、その紐を握ることもしない。  生々しいその首輪には、名前すら書かれていなかった。  そもそも、私は人間よ?  無機の物ではない。適正飼育生物でもない。  管理? 従属? 隷属? 従順? 笑わせないで。  重なる矛盾。  愚かな手違い。  痛々しい勘違い。  そんな有り様ばかりを纏う相手に、どうして期待を寄せられるだろう?  だってこれ、精査するまでもなく、浮気でしょう?  腰に手を回されていたとか。  肩を抱いていたとか。  髪を梳いただとか。  頭を撫でただとか。  その辺りは論外で。  最も気に入らないのは、想いの行方。  気持ちが浮ついたその時が、浮気の始まりでしょう?  私を見ていない。  目が私を向いていない。  私を特別視してくれていない。  それはつまり、私を口説いたあの頃の想いなど、とうに失せている事実の裏返し。  例えば私は、男性から順番を付けられることが嫌い。私が一番だったとして、一番なら良いというわけではない。特に、好意を寄せた相手から番号を割り振られるということは、二番、三番の相手が存在する可能性が示唆される。二番目や三番目がちらつく時点で嫌。実在する場合は論外。認められない。許容できない。私と無関係の世界でどうぞ。私は関わりたくない。  論外なのよ、本来は。  あり得ない、本当に。  はあ。  溜息。  それに合わせて。  力が抜けていく。  気を張っていたのかもしれない。意識している間も、無意識のうちにも。  プレッシャとか、妻とはこうあるべきという固定観念とか、そういうものを無意識に意識していたのかもしれない。  可笑しな表現。  可笑しな立ち位置。  私は、何をしているのだろう?  一体、どうしてしまったのだろう?  私はいつから、馬鹿に成り下がったのか?  これほどまでに、都合の良い女だったか?  やめてしまっていいか。  諦めてしまおうか。  そんな発想を抱く。  複雑な思いが絡まっている。  もう終わってもいいかな、と区切りを意識している自分がいる。  打ち止め。  終焉。  お別れ。  残酷な真実と共に光るホテルから目を逸らして、私は歩き出す。  このスーツ、捨ててしまってもいいかしら、なんて考えながら。  翌日を含め数えて丸二日間。  私は普段通りに過ごすふりをしながら、着実に準備を進めた。  時間は主に、下調べに費やした。私の今後に関わる情報をかき集め、頭に叩き込み、起こり得る状況を想定し、安全圏と危険域を把握。味方となってくれる人達を記憶。敵対してしまう人達を認知。人間同士の繋がりには、必ずこうした派閥が形成されてしまう。煩わしいことだ。敵対も、争いも、リソースと時間の浪費であるため、可能な限り避けたいところ。  必要な書類、必要となるかもしれない書類、細々したものを揃えて、お金も下ろした。現状、私を支えてくれるのは、この頭脳と、検索するだけで簡単に手に入る情報、そこから得られる知識、そして現金である。  貯めておいて良かったな、と思う。  勉強してきて良かったな、と思う。  学ぶのは得意。考えることも得意。二十年以上続けてきた習慣だから。  備えることにも慣れている。そういう仕事をしていたし、そういう生き方をしてきたから。 こんな活かし方をする日がやって来ることだけは、想定外だったけど。  できる限りのことをして、順調に準備を終えた私は最後に、彼へ向けて手紙を書いた。  これに一番時間を使うかなと予想していたけれど、案外、スムーズに終えられた。  所要、五分。  書きながら、泣いてしまうかな、と力んでもいたのだけれど。  涙は、一粒も零れなかった。
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