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「始める」
大きく息を吸ってから目を閉じ、口を結んで空気が漏れないようにした。
最初は楽勝だったが、次第に苦しくなる。
息をしちゃだめだ……そう思うと吸いたくなる。水が飲めないと思うと、喉が渇いてくるのと同じ。
「そろそろ、2分。がんばって」
変化はない。
「3分くらいかな」
そのとき、変化が起こった。
まぶたの向こうが明るくなった気がしたのだ。
酸欠で、光が舞っているように見えているのか?
違う、人工の光だ。
あり得ない。真っ黒な闇に覆われた部屋にいるのだ。
確認方法は簡単、目を開ければいい。
息を吸わないように意識しながら、まぶたを開いた。
――どういうことだ、見えるぞ!
視界に女性の姿が入ってきた。
心配そうに俺に視線を向けている。
……名前は佐竹。そう、佐竹美和。俺より二歳年上の二十九歳。
分かるぞ、思い出せる!
記憶の回復に喜びかけたそのときだった。
――これは、誰だ!!
心臓が強い力で握られたようだった。
美和の背後に……男性が立っていた。
白髪混じり、青白い顔――こいつは、月島……死刑囚の月島だ!
理由を思い出した。
俺たちは、月島を使って実験をしようとしたのだ。今日は、月島の死刑執行日。それを狙って、政府から依頼された。
室内に充満する気体は、俺が開発したもの。脳の特定の機能を抑制する、実験段階の気体だ。視覚が失われるという副作用がある。息を止め、気体の効果が失われると視界が回復する。
この気体の実験台として、月島は連れてこられた。
息苦しい……限界だ。
月島が突然、両手を大きく振り始めた。
右手には手術用のメス、左手には血の付いた鉄パイプが握られていた。
――何をしている!?
その挙動を目で追おうとしたとき、気が付いた。
見えているのかを試しているのだ!
俺の視界が回復しているかを確認している。
月島は気体の効果を知っているのだ! 目で追ってはいけない。
テレビで見た全盲の人の挙動を思い出す。焦点を遠くに置き、見えていないふりをした。
「大丈夫!? 息をして!」
心配になった彼女が、俺の体を揺すった。
ナイスタイミング。これ以上、演技はできない。
俺は、ごほごほと咳をしながら起き上がった。
「思い出せた?」
「だめだ。あと一歩なんだが」
思い出したことを語る訳にはいかない。月島について語ることになるから。
暗闇に戻された俺は、壁際に腰を下ろした。
「収穫ゼロ?」
彼女が投げやりに言った。
「ああ。疲れたので眠ろう」
俺は目を閉じた。
――月島は襲ってこない。
確信があった。
奴は元精神科医。100人も殺した殺人鬼。
自殺願望のある患者に目をつけて誘拐を繰り返した。
自宅の地下室に閉じ込めて観察した。弱ったら、自らの手で殺害する手口。その後、遺体を山奥などに遺棄した。
自殺願望がある人間を狙っているので、怪しまれなかった。狡猾な奴だ。
犯行は年に3~4人。これも怪しまれないためだ。それを、30年も続けた。
月島は、この部屋で同じことをしている。
俺たちの視界が奪われているのをいいことに、観察して楽しんでいる。そして……飽きたら殺すつもりだ。
彼は裁判で、幻聴と幻視に悩まされていると語った。
俺が開発した気体は、その治療に用いることができる。
戦場から帰った兵士が患うPTSD――心的外傷後ストレス障害の治療に有用と考えられ、政府は注目していた。
臨床試験に進める段階ではなかったので、死刑囚で試すことにしたのだ。
それが、俺たちがここにいる経緯だ。
麻酔で眠らせた月島の手錠を外して、ベッドに乗せて手足を拘束しようとしたとき、奴は起き上がって俺たちを襲った。その後、気体のボンベを開放した。
おかしい。
奴は俺の方を見ていた。気体を吸っているのに、なぜ、見えている?
薬に耐性があるのかもしれない。麻酔を掛けたのに動けたのも、それが理由か。
政府から与えられたのは3時間。それまで、ドアは内側から開かない。時間が経過したら、外からドアは開けられる。
待てば、助けはくる。
しかし、その前に俺たちは殺されるだろう。
月島は、逃げられるとは思っていない。
死刑が執行される前に、ご無沙汰だった殺人を楽しむつもりなのだ。
視野が奪われたこの状態でどうやって戦えばいい?
武器は?
手術用のメスは武器になる。しかし、探しているのが奴にバレたら終わりだ。月島が武器だと考えない何かで立ち向かう必要がある。
呼吸を止めて視野を確保しても、殺人犯と長時間、対峙することはできない。一撃で決着を付ける必要がある。
条件に合う武器は……あった!
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