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絶望の淵からの滑落
『お元気で』
そう沙綾は言い、なんの未練も無いように立ち去った。
奈嗣は表情が抜け落ちたかのような顔をし、立ち上がったまま身動きが取れずに沙綾を見送った。
「…『顔見知り』…」
沙綾の姿が見えなくなり、口から漏れ出るように小さく呟くと、力が抜けたように椅子に座った。
沙綾の言う通りだ。
奈嗣と沙綾は、友人ですらなかった。
プライベートな事は、殆ど踏み込む会話をしなかった。
それは知ってはいけない事だからだ。
だけど、奈嗣はこの『月に一度の食事』を終わらせるつもりは無かった。
次に会った時に、また『食事』に誘おう。
元に戻ってしまったが、何時か、沙綾が自分との時間を取ってくれたら良い。
そう思った。
もしかすると、奈嗣は沙綾にとって嫌な事をしてしまったのかもしれない。
もしそうなら、ちゃんと謝ろう。
沙綾との『月に一度の食事』を失う訳にはいかないのだ。
奈嗣はそう考え、溜息を着いた。
そして立ち上がった。
ミュゲを出ると、奈嗣は一人でエントランスに向かって足早に歩く。
何時もであれば、沙綾の手を握ってゆっくりと歩く。
今日もその筈だった。
なのに、傍に沙綾は居ない。
得る筈だった、少し冷えた沙綾の体温が無い。
たったそれだけで、月に一回の何時もよりも更に精神的に不安定になっていく。
沙綾が帰路に着く為に立ち上がるまで、何時も二人で座るソファに、奈嗣はたった一人で座った。
この場所で、彼女の手に触れる。
月に一度。
その細い指に自分の指を絡ませて。
ゆっくりと、その指の形を覚えるかのように。
少し冷えた指先と、指の付け根の温度の違いを感じながら。
きめ細やかな肌の心地良さを、じっくりと味わうかの様に。
手首を飾る華奢なチェーンが、時折自分の手首にも触れる。
縛り付けてしまいたい。
そんな自分勝手な想いが具現化したかのような、主張の強い色味のブレスレット。
その時間が、今日は存在しない。
胸が詰まる気がした。
感情の話ではなく、息が上手く出来ない。
コレでは、見ず知らずの女を捕まえる事など出来ない。
今日だけは、誰かを抱かずには過ごせないのに。
奈嗣はポケットに入った携帯を取り出した。
そして“りっちゃん”と表示された電話番号に電話を掛けた。
携帯を耳に充てると、何時ものようにコール音が鳴り響く。
「…早く…。りっちゃん…」
コール音を聴きながら、奈嗣は呟く。
『…奈嗣?』
通話が開始してすぐ、相手が奈嗣の名を呼んだ。
「…りっちゃん…今日、暇?」
『…良いわよ。3時間だけなら。』
電話の相手、りっちゃんは1拍置いて、落ち着いた声で奈嗣にそう告げた。
「…それで良い…。何時もの部屋に来て」
二人は約束を取り付けると、電話が切れた。
◇◇◇◇◇◇
『りっちゃん』こと、弓原律子は旧知の仲だ。
昔奈嗣が通っていた中学の、養護教諭をしていた女性だ。
当時25歳だった彼女は、今は49歳という年齢だ。
しかし女性と言うのは、正に『魔女』だと思う。
というのも、李娜に然りだが、正直見た目だけなら奈嗣よりも若く見えるのだ。
『美魔女』というヤツだ。
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