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――白黒ハッキリ着けようじゃないのさッ。
啖呵を切る練習にはなりそうなので、ちょっとした行き違いから喧嘩となった相手に向かって、そう言い放ってみると、白黒もいいが、黒赤とか、青黒とか、そんなもんじゃいけないのかね、と切り返されたのには、路子とて、返す言葉がなく、自分もまだまだなんだなと知らされた。
それで、修業の旅に出掛けることにした。
いや、そうしたかったのだが、親の後を継いでの商売を始めたばかりの身の上では、叶わない。
若いミソラでの客商売、自分なり誠意と愛嬌をもって接しているつもりでも、思わぬところから難癖めいたものを寄越してくる御方というのは絶えずもいるもので気も滅入る。
たとえば、お酒の酌をする時、「あんたはイイ目をしている。向いてるね、この商売」と今褒めたかの御仁が、翌日の宵には、「今度の週末にでもいっしょに温泉でも行かないものかね」と下心を隠さず、腰など撫でてくる。ご冗談を、とやんわり拒んだつもりが、御仁はヒヒ爺へと急変、「この薄情者、恩知らず」と牙をむいてくる。
「わたしが、そんなにいけないですか」
「客に向かって、白目をむくようにして、イヤとばかり宣うのが能でもあるまい」
あー、ヤダヤダ。お酒を提供して、おしゃべりをして、そうしておカネを頂く商売というものをしているのだから、多少の我慢を強いられるとはわかっていても肯けず、そんな時、「白黒ハッキリ着けようじゃないのさッ」スパッと言い切ってしまえたら、どんなにイイだろうとうっとり願う路子なのであった。
そんなオーナーママ・新田路子を見て、
「オネーさんさ、もっと気楽にいこうよ」と慰め半分、背中をナデナデしながら声を掛けるのは、アルバイト生の高子である。
弱冠ハタチという触れ込み、バイト誌をめくって、この店を訪ねて来たというが、あっけらかん&サバサバ、雇い主の路子を、ママとも呼ばず「オネーさん」、新入りのバイト生なら誰もが課せられるトイレの掃除なども、あははーと笑って、「アタシって、そんなのやらないっすヨー」の一点張り、早々にもクビにしようかと思わずにいられなかったが、あらあら、ヒト月足らずのうち、正規採用の先輩女子達を抜いて、店のナンバー1となったのはアッパレ。
とにかく接客に天才的な力量がある。ファンを自称するお客は、あっという間に引きも切らずのありさまに、嫉妬も交じって、こんな小娘がイイ気になっている店にはいられないとまずは2人の先輩女子が辞めた。
あーら、アタシのせいかしら、と茶目っ気半分、ウインクなどしながら路子を見、「オネーさん、1人や2人の女子が辞めちゃったからって、気にしない気にしない、このアタシが一人で2人分でも3人分でも働くからさッ」と見得を切られ、じっさい口にたがわずの接客振りなど見せられれば、路子とて、まあ、文句は言えないところがあった。
そんな高子に、ある日、〝白黒ハッキリ着けようじゃないのさッ〟の愚痴を聞かれてしまった。
相も変わらずのヘンな色目ばかり使ってくるヒヒ爺を何とか宥めて咳を外して行ったお手洗いの鏡に向かっての独り言。
あーら、黒だ白だとお賑やかなことッ、と高子はやっぱり、あははと笑いながら、そんなことばっかり言ってたってナンにも始まんないよ、とダメ押しをした。
「オネーさんさぁ、ココロにもカラダにも白黒ハッキリ着けたきゃ、オセロでも朝からやっときなってね」
「あなた、お説教? わたしに? これでも一応、オーナーママよ」
「あ、ほら、オネーさんったら、そんなノリがまたわざわいをお招きするのよ」
「そ、そんなこと」
キーッとハラワタが煮えくり返る路子に、しかし、高子はクールそのもののまなざしを充てながら、言う。
「白黒ハッキリ着けたければね。一つ、方法があるにはあるのよ」
「え?」
「教えてほしいでしょ。うふッ、お顔全体、お体全体が、そう言っているワ」
高子は馴れ馴れしくも、路子の顎など、ゆるりと撫でて来て、言った。
――そうよ、オネーさん、黒の世界に往って来れば、こんなのお茶の子さいさいよ。
「お茶の子って……」
そのような言い回し、久しぶりに聞く、あなたもけっこう古いとこあるのね、と言い返してやろうかと思ったが、それよりも、何より、黒の世界とは、何ぞや。
「お聞きになったことないかしら」
急に丁寧な物言いをされて、あらと身構えそうにもなった路子であったが、
「誰もが知っているかもしれないし、誰も知らないかもしれない。でも、一度往ったら、誰もがそれまでそこに往かなかった自分を悔いる。別世界よ」
うっとり宙を見つめる高子の右眼左眼には圧される。負けそう。
「オネーさんも、往ってみたら、どうかな」
「どうやったら、往けるのかしら?」
「そんなのカンタンよ」
「カンタン?」
「そうだよ。アタシが連れてってあげる」
「そんなこと、あなたに出来るの?」
咄嗟に訊いた自分を、路子は恥じた。
目の前にいる、黒の世界とやらに往って帰ってきたという高子を信じたい気持が見る見る勝る。
「白黒ハッキリ着けようじゃないのさッ、なんてね。そんな啖呵、切ろうとする前、この世の厄介ごとなんて、みーんなオネーさんを素通り。黙っていてもこのお店だって、何倍ものご繁盛ってね」
「そ、そんな夢みたいなこと……」
「まあ、ヒト晩、ゆっくりお眠りなさいよ。すべては、それからってものッ」
「そ、そんなこと言われたら、気持が昂ってしまって寝付かれそうにないわ」
「かわいいわ、ママったら。好きよ」
高子は初めて、路子をオネーさんでなく、ママとやさしく呼び、ふっと顔を近づけて、右の頬、左の頬と軽いキスのリレーをし、つぶやいた。
「これでだいじょうぶ、ヒト眠りしてお目覚めになれば、黒の世界に往って帰ってきたママが、そこにいるのよ」
何時間、眠ったのかしら――翌朝の目覚めは爽快だった。
こんなのって久しぶり、お店を始めてから初めてかもしれない。日頃から売上高の心配ばかりしているせいか、熟睡とは無縁の日々を送っている路子なのだった。
ヒト晩、眠った路子は、寝起きすぐさま、我が手を見た。
ヒト眠りすれば、黒の世界へと言って帰って来たママがそこにいると高子は言った。
黒の世界のたまものと、肌が黒味を帯びているのではないかとまずは両手を見てみたが、血行よろしくのピンク色。鏡を見れば、顔もおんなじ、なーんだ、何だかどこもかしこも変わっていないじゃないのよ。
その日の仕事始め、路子は高子に詰め寄るようにして言った。
「――そんな感じなんだけど。わたしって、ホントにホントに黒の世界とやらに往かせてもらったのかしら」
高子は、うふふんと微笑んで、路子を見た。
「アサイなー、ママは」。そして、スパリと啖呵を切るみたいに言った。
「今夜のご商売が始まってみれば、そんなこと言ってらんないと思うわよ」
高子の言ったことに、嘘はなかった。
シツコイばかりであった色目のヒヒ爺が、すっかり紳士の顔をして、ママ、これまで不愉快な思いなんてものをさせていたかもしれなくてゴメンよ、と殊勝に謝り、新規の客を次から次へと同伴してきてくれたのを皮切りにして、千客万来の繁盛振りが続く。
商売だけのことではない。年来の心配事であった母親の病が奇蹟的な回復の兆しを見せ、手術も成功、昔の杵柄を取っちゃたりなんかして、お店にカムバックしようかなと元オーナーママの彼女は冗談半分にも、カカと笑っている。
「高子さん、お礼を言いたいわ、あらためて」
「そんなのいいのよ」
「ホントだったのね。ヒト眠りしただけで、わたし、黒の世界へと往って帰ってきたのだわね」
「今頃、信じる?」
高子は鷹揚に受け流すみたいな顔をして、満足そうにも笑っている。
路子も乗った。
「あなたって、超能力者さん? エスパーさん?」
「ありえないでしょ」
笑うばかりの高子は、しかし急にコホンと咳払いのようなことをして、路子を見詰める。
「ママの言ってること、わからないでもないわ」
「そう、なの?」
「うん、だって、わたしもママと同じだったの、ほんの少し前までね」
高子は少し遠くを見つめるような顔になって、語った。
今はこんな自分でも、ついこのあいだまでは、そこらへんでフツーに働いて、フツーに笑ったり泣いたりしているOLだった。毎日毎日、不平不満ばかり抱えていた。恋もしたいけれど相手がいない。仕事も面白くない。そうこうしている間にも、あたし、ケッコンしちゃった、式に呼ばないでゴメンね。でも今、とってもシアワセ。タカコちゃんもしっかりね、なんてイイ気な手紙が、高校時分の友達から届いたりもする。やってらんないわよ。ムカつく。わたしのジンセイって、なによ。
「そうなの、わたしもね、白黒ハッキリ着けようじゃないのさッ、が定番の口癖だったの。だから、わかったのね。ママの気持が。痛いほどね――と言っちゃ、昔風のヒトみたいだけど」
遠くを見つめて語る高子は、涙ぐむような顔にもなっている。
お訊ねするなら今かな、と路子は閃いた。
「黒の世界って、ほんとのところ、何?」
高子は、遠くにやっていたまなざしをそのまま目の前の路子に移して充てる。
「訊かぬが花、言わぬが花、知らずが花ってね」
涙ぐみそうだった顔を元に戻して、更に言う。
「ホントは誰でも知ってるかもしれないのよ。気が付いていないだけかな――そういうヒトって、たぶん、けっこういるの。みんな、言わないだけだよ」
花、花、花、と花尽くしで、いなされた様子もあったが、これはこれでよかったのかしらねと路子は、お店の定休日の夕暮時、足指の爪など切りながら、呟きそうになっていた。
仮にも接客商売、そんなお店のママならば、ネイルサロンの常連にもなって、人任せにするのがよろしいかと思わないこともないが、倹約家の路子は、自分の爪のお手入れぐらい自分での思いがある。
この爪のかけら一つも白い、と見遣る。黒くは無いのだ。
白黒ハッキリ着けようじゃないのさッ、の啖呵を切りたくなることもなくなっている。
お店の繁盛ぶりは変わらず、夢であった支店を持つという計画も、この調子なら叶うかもしれないと路子は思いを巡らす。
そうよ、そのお店は、高子ちゃんにお任せするのね。きっと、そちらも繁盛するわ。
パチンパチンと切る爪が、四方に散るようでも気にしない。
新しいお店、高子ちゃんが新ママ、気持が昂まる。
だが、三日後、路子は思いがけなくもの心配事を抱えることになった。
高子が、出勤してこない。
どうしたのか。電話をしても、出ない。
事故や急病で、救急車で運ばれて……とふくらむだけふくらむ良からぬ想像……
高子は、しかし呆気なくも、程なく不明のヒトではなくなった。
四日後の昼過ぎ、本人から連絡があった。
「ママ、ごめんね。でも、シンパイしないでね。あたしってさ、ちょっとさ、気晴らしなんてしてるだけだから」
キ、気晴ラシ? 久しく聞いていない言葉であるような気がされたが、行方が知れたことに、まずはホッとした。しかし、今の高子が何処にいるのか、路子はまだ知らされていない。その思いを見抜いてか、高子は屈託なくも言い切る。
「ちょっとさ、こっちに来てるだけだから」
「こっち……?」
「そう、こっち」
「それって……ううん、そこって」
「そうだよ」
「そこ、なのね」
わかってんじゃん、ママー、と高子は、ハシャギ声を上げた。
「てなわけで、シンパイいらないから、もうちょいしたら、そっちの世界に還るから」
「わかった」
それだけ、短く返事をしただけで、電話は終わった。
高子の方からでも、路子の方からでも、切ったような終わり方だった。
時々、さあーッと店内の照明が暗さを帯びる。見る見る本当に暗くなる。闇のような黒が店全体を包む。何かの演出なのか、これから何かの特別な催し、パフォーマンスとでもいったようなものが始まるのか、と客達は期待半分、次の瞬間を待つ。待った甲斐があったか、店内は隅から隅まで、明るくなる。暗くなる前より一層の明るさのように感じられる。しかし、また暗くなる。一斉に、黒が来る。
「皆さま、ゴメンなさい。突然、失礼いたしました。でも、これはほんの御演出とでもいうもの。暗くなる、明るくなる、また暗くなる。そうです、こうして、黒の世界がやって来る。これは、長年この店を経営してまいりました、わたくし路子、新田路子からのささやかな贈り物でございます。ほんのひととき、この黒の世界にお浸りいただければ、きっと、皆さまの御元へとも、きっときっとイイことがやって来るのに違いございません」
キッとまなざしを宙に据え、淀みも無しに伝える路子に、客達は呆然とした。
オーナーママ新田路子の店は、やがて、そうして、〝黒の店〟と呼ばれるようになった。呼ばれるようになって、客足は安定さを欠いた。減る、増える、また減る。だが、潰れるまでには何とか行かない。
路子ママの様子が、どうも変だとの噂が、夜の商売仲間に早足で広がる前にも、しかし、路子は店に出ることがなくなった。1週間後も1カ月後も、そうだった。売れっ子の高子から先を越されてもメゲずにしぶとく居残り続けていた最年長者の近藤常子が、おのずと臨時ママの役目を果たすことになる。
「路子ママ、どうしてるの。長らく顔を見ないが」
「ごめんなさい。ちょっとね、長旅なのかな」
常連客から訊かれるたび、新ママ候補(と言っていいのだろうか)・近藤常子は、愛想よろしく、こたえてみせるが、こころの裡は絶えず波立っていた。
「そういや、ほら、あの子も見ないね。高子ちゃん」
と更に訊かれたなら、波立ちはもっと甚だしいものとなる。
「二人揃っての長旅かい」
どうにも納得できないと訝しむ顔・顔・顔を、近藤常子は見たくなかった。
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女の死体が波に洗われる。
白くもある波は、宵越しともなれば黒みを帯びる。
こっちのナーミは、しーろいよ。
こっちのナーミは、くーろいよ。
死に包まれた二体は、海の沖へと流れていく。
ナーミをくぐれば、世界に着くよ。
ナーミが尽きれば、世界に還るよ。
死の女達は、絶え間なく唱和する。
もうじきなのね。もうじき、わたしたちはいっしょに着くのね。
そうだよ、ママ。もうじきだよ。
白い波を呑み込むだけ呑み込む黒い波が、いっそう激しく飛沫を上げて、黒さを増させていく。
明けることのない闇が、やがて、二体をさえ、消えさせ、あとには、静かな黒とも知れないさざ波だけが残った。
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