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それは一匹の実験用ICRマウスから始まった。そのマウスは、性同一性障害を持ち苦しむ人々を救うための大きな一歩となる実験成果を出した。オスからメスに性転換したのだ。だが、まだまだ不規則で不完全。ある日、この実験途中に問題が起きた。マウスが実験室から逃げてしまったのだ。
そのマウスは研究施設から脱出。下水道などをウロつき、他のネズミ達と接触した。接触ネズミは他のネズミと接触。それを繰り返す。この時点でICRマウスのウイルス放出を確認。それは、あくまでネズミ間だけの感染に留まっていた。だが、ある日、感染ネズミと接触した人間が奇病を発症。医療機関を受診したことにより、ネズミから人への感染が発覚した。
場所は日本。国はパニックに陥った。事態を重く見た日本政府は、実験元の製薬会社と一致団結し、ICRマウス及び接触ネズミの捕獲に成功。奇病を発症した人間達を隔離した。
奇病の名前は【交代性転換病】一日ごとに性転換を繰り返してしまう難病だった。治療薬はない。研究者は隔離した人間達の調査結果を政府に報告。
人から人への感染はないと判断され、その者達は解放された。患者数、千四百三十名。現在も治療薬の開発は続いている。
◆
僕は市道尚弥(二十五歳)僕が交代性転換病を発症したのは高校一年の時だった。感染経路は、隣家で飼育していたハムスターが逃げて偶然に僕が発見、捕獲したのが原因と医師から告げられた。後に隔離され戻されたのは高二の時。隔離期間も勉学に支障はなかったため、元のクラスに戻ることができた。
僕はアニメ大好きな根暗。地味な友達が数人だけいた。また友達とアニメが語れる。そう喜んだのも束の間、現実は違った。皆が僕を奇妙な目で見たせいで友達も距離を置くようになっていたのだ。考えて見れば当たり前のこと。今日の僕は明日になると私になってしまうんだから。
好きだったヤツにも敬遠される始末。クラスで孤立。僕の高校生活は地獄と化した。
一日交代で男女が入れ替わるのだが問題点が一つある。僕は彼女を知らない。彼女も僕を知らない。周囲の環境や勉学に関して記憶は引き継ぐのに、互いの記憶だけがスッポリ抜ける。従って、彼女が誰と会話し何をしたのか僕は全く知らなかった。太陽と月、そんな感じだ。
だがある日、男子生徒が僕を見て溜め息を吐いた。そしてこう言ったのだ。「ずっと綾羽ちゃんでいてくれたら良いのに」
耳を澄ませば、そんな声が多数から聞こえてくる。綾羽とは、両親が名付けた僕の女性名だ。徐々に綾羽の存在が明確になる。彼女は友達も多く、このクラスの女王的立場だった。
彼女と会話したい。僕は二人が共有するiPhoneのメッセージに自己紹介を記し『次は君が自己紹介して』と書いた。彼女がメモを見つけてくれることを祈りながら。
翌日、メモを確認してみると僕の書いた文章の下にこう記されていた。
『自己紹介もクソもない。あたしは市道綾羽。君の二分の一。それだけは理解してる』
この日より、綾羽と僕の会話が始まることになる。
『好きな食べ物は?ちなみに僕は肉』
『あたし、肉は嫌い。魚が好き』
『趣味は?僕はアニメを観ること』
『ガキくさっ!あたしは学校帰り、友達と行くカラオケかな』
『友達いて良いね。僕は一人だよ』
『アンタのこと、みんなこう言ってる。根暗、陰気だってさ。ちなみに今日、彼氏できたから宜しく』
『彼氏?だれ?』
『クラスメイトの東山大輝君。告られたから付き合うことにした』
東山大輝は、僕の好きなヤツだった。これにより、僕の初恋は儚く散った。
僕は、これといって特徴のない顔に眼鏡をかけたインゲンみたいに細い男。そんな僕が女になるとガラリと変わる。アルバムの写真で知ったのだが、コンタクトにした綾羽はナイスバディの美少女だった。顔は変わらないのに……。どうやら僕は、女顔になると美人の部類に入るらしい。綾羽が太陽で僕は月。完全に分離した別人だった。
それは大学生になっても変わらない。綾羽はみんなにモテはやされ、ミスコンで優勝。僕は相変わらず一人だった。
大学を卒業。僕は製薬会社に就職した。理由はちゃんとある。開発研究員になり、自分の難病を治癒する薬を開発したかったんだ。この病気に苦しむ人は僕を含め、日本国内に千四百三十人いる。患者を一日も早く救いたかった。
この研究室で、僕に初めて親しく話せる友人ができた。彼の名前は矢崎舞雪。同期入社で同じ年。名前の由来は、産まれた彼の肌が、舞い散る雪のように白かったので名付けたそうだ。
舞雪は僕のネガティブを根暗ではなく神秘的と言った。「無理して明るくなろうとしなくてええねん。それが、お前の個性なんやから」
関西出身。スリム、高身長。太陽のように明るい男で目鼻立ちが凛とした眉目珠麗。いつしか僕は、彼への愛を胸に秘めて接するようになった。
舞雪が好き。だけど告白はできない。拒否られたら地獄だから。
苦しく切ない夜が続く。一番、胸が痛んだのは綾羽とのメモトーク。彼女も舞夢と親しくしていたのだ。しかもメモには『舞夢が好きかも』と書かれていた。
それとなく舞雪に綾羽への気持ちを確かめてみる。彼は「別に、何とも思うてへんよ」そう言って笑ってくれる。それだけが僕の救いだ。いや……だった。もう過去形。あっさりと二人は身体の関係を結んだ。
『舞雪と犯っちゃった』
iPhoneを持つ手が震える。僕は携帯をベッドに叩きつけた。
親しい友人、賛美の言葉、恋愛。君は昔から何でも持ってるじゃないか!僕はいつも一人だった。舞雪は初めてできた僕の親友……。いや、深く愛する人。そのたった一人を君は女ってだけで、あっさり奪うのか?酷いよ。残酷すぎる!
涙が溢れて止まらない。この日以来、僕は綾羽との会話をやめた。メッセージを開かなくなったんだ。でも二人の関係は気になる。
後日、僕は舞夢にそれとなく尋ねた。
「綾羽と付き合ってるの?」
「いや、付き合うてへん」
「じゃあ、付き合うの?」
「知らん」
なんだよ、その返答。僕は平手を拳に変えた。
「知らんって、なんで彼女を抱いたの?」
喫煙室に暫くの静寂が流れる。舞雪は天井に顔を上げ煙をふぅ〜と吐いた。
「さあ〜、なんでやろな?」
「さっきから曖昧な答えしか聞いてない!」
僕はヤニで黄ばんだ壁を叩いた。
「君はイケメンだし、社内でもモテてるよね?女なら吐いて捨てるほどいるだろ!そんないい加減な気持ちなら綾羽を抱いて欲しくなかった!」
舞雪は短くなった煙草を設置された灰皿で揉み消した。ブォ〜ッと音をててる空気清浄機。
「お前、綾羽を好いとるんか?」と、彼は聞いた。
「違う!そんなこと!」
瞬間、舞雪の手が伸びて僕の顎を掴み上げる。息がかかるほどの至近距離。彼が口を開くと煙草の匂いがした。
「違うなら、ほっとけや」
「えっ?」
「これは綾羽と俺の問題や。お前には関係あらへん」
「かっ、関係はある!綾羽は僕だ」
「綾羽は僕か……」
舞雪が口角を意地悪そうに吊り上げニヤリと笑む。
「ほんなら、お前も俺のモンになればええんちゃう?」
彼の黒目に蘭と赤い光が走ったような気がした。僕は必死に顔を振り、舞雪の手から逃れた。
「逃げんの?」
振り払われた指が僕の唇を撫でて去ってゆく。彼は前髪をサラリと揺らし、顔を傾けた。
「いつも逃げるやんなぁ〜」
「いっ、いつ僕が君から逃げたの?」
「覚えてへんの?一回目、新入社員歓迎会の夜、トイレで逃げたやん?」
「そんなこと覚えてない!」
「酔うてたからなぁ〜。仕方あらへん」
「二回目は社員旅行やね」と舞雪は言った。
「宴会中、またトイレやったなぁ〜。あっ、これも酔うてたなぁ〜」
「全く記憶にない」
僕は首を激しく振った。
「まあ、とにかく……」
再びポケットから煙草を取り出す舞雪。
「俺が、お前の二分一を抱いたいうことは事実やわ」
その言葉を、僕は白衣の背中で受け止めた。早く、この狭い喫煙室から、二人きりの空間から逃げなければ。そう思った。
記憶がない。それは嘘だった。だって、新入社員歓迎会で初めて舞雪を意識し、社員旅行で彼を好きになったのだから。
好き、だからこそ怖い。それは、彼ではなく僕自身の問題。僕は彼の前で理性の保てない獣に変化してしまう。さっきだって気を抜けば唇を奪ってしまいそうだった。僕の愛は、彼と築いた友情を粉々に壊してしまう。それが、たまらなく怖かった。
綾羽、僕は君が羨ましい。だって君は彼の素肌に触れられたのだから。
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