桔梗庭

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桔梗庭

       梅雨の終わりが告げられる頃、古びた山寺の庭には美しい桔梗の花が咲き乱れていた。雨上がりの午後、濡れた石畳を歩く僧侶の祥伸は、庭の片隅に一人の女性が立っているのを見つけた。彼女の名は千鶴。かつて祥伸と愛し合った女性だった。  しかし、二人の愛は許されるものではなかった。祥伸は若くしてこの寺に預けられ、仏門に修行することになっていた。僧侶となっても伴侶を持つことが許されないわけではない。ただ、一般的な自由さはなかった。千鶴の方も、家の都合で他の男と婚約させられていた。時は、昭和の終わり頃のこと。二人は運命に抗うことなく、別れを選んだのだった。  それから十数年後、千鶴は再び寺を訪れたのだった。 「千鶴さん…だね?」祥伸が問うた。 「はい…。祥伸さんに会いに来てしまいました」彼女は静かに告げると、祥伸に一通の手紙を手渡した。手紙には、重い病にかかり、余命幾許もないことが綴られていた。そればかりか、千鶴は祥伸に対する、積年の想いが書き記されていた。 「最後に、あなたに会いたかったの。ほんと、会えて良かった」と千鶴は言った。それから、彼女は溢れんばかりの気持ちを祥伸に告げた。 「あなたに会えなかったとしても、手紙を置いて置けば、お寺に来たことを伝えることができる。もう、想いに後悔を残したくないから…」  祥伸は彼女の手を取り、庭に咲く桔梗の前に連れて行った。桔梗の花は、彼らの愛の象徴だった。二人が最初に出会った時、祥伸が桔梗の花を千鶴に渡したことが始まりだったからだ。 「桔梗の花言葉は、『永遠の愛』です。あなたと過ごした日々を、私は決して忘れません」と千鶴は涙を浮かべながら語った。 祥伸もまた、涙を隠せなかった。彼は千鶴の手を握り締め、言葉にならない感情が胸に溢れた。 「千鶴さん、私もあなたを愛してました…」祥伸は、それ以上言葉にすることが出来なかった。本当は、 「今でも、あなたのことを想わぬ日は、片時もないのです」と。  祥伸は、想いを口にすると、このまま千鶴を手元に引き寄せ、抱きしめて離せなくなりそうだった。  そのとき、庭の桔梗が揺れた。桔梗は祥伸の想いを汲み取っていたのかも知れない。    祥伸は、手を伸ばせば触れる事が出来る距離を保ったまま、千鶴を見つめた。  千鶴もまた、微笑みを浮かべながら、真っ直ぐに祥伸を見つめ続けていた。  彼らは、見つめ合い、時間の流れに身を任せていた。  この日、この時間、たまたま寺には祥伸の他、誰もいなかった。そして、誰も寺に訪れて来ないようだった。  時がくれた偶然のプレゼントなのだろう。彼らは、僅かな時間の至福を堪能した。  二人の間にだけ通う空気が漂い、それを庭の桔梗が見守るかのように、また揺れていた。  やがて、閉門の時間になり祥伸は、千鶴を寺の門まで送り出した。雨上がりの夕焼けが別れを一層切なく感じさせていた。  門を出て、しばらく立ち止まっていた千鶴は振り返り、祥伸に微笑んだかと思うと、何も言わず静かに立ち去った。    以後、千鶴からの連絡は全くなかった。 「千鶴さんは、もうこの世にいないのかも知れない。ああ…」千鶴が寺を尋ねてきてから数ヶ月経っていた。もう、居ても立っても居られなかった祥伸は、再会したときに渡された手紙を手がかりに彼女の消息を手繰ろうとした。  だが、住所など連絡先は何も書かれていなかった。この時、会ったときにせめて電話番号くらい聞いておけばよかったと悔やんだ。だから祥伸は、いけないと思いつつも、千鶴の実家に連絡をした。 「千鶴さんの古い友人の大崎と申しますが、千鶴さん、今はどちらに居られますか?ちょっと、連絡を取りたいと思いまして」 「もしかしたら、祥伸さんか?」 「は」 「姉さんが、ずっと昔に付き合っていたひとやろ?」 「はい…」 「亡くなる前、お寺に行ったって聞いてたわ。ぼくは、弟の…」 「祐二さん、ですね」 「そや。姉さん、結婚したけど、相手の人が酷すぎてすぐに離婚したんやで。でも、祥伸さんに、連絡をせんかったやな。姉さんは、離婚後、ずっと独り身で頑張りすぎたんや。きっと。乳がんやった。わかったときは、もう末期でな。遅すぎたんや」 「がん、、だったなんて…」 「もう、ひと月ほどになるわ」千鶴の弟は、親切にいろいろと話してくれていたが、もう祥伸の耳には入って来なかった。電話口から聞こえる優しい関西弁だけが、こだましていた。  祥伸は深い悲しみに包まれながらも、彼女との再会が最後の幸せだったことに感謝した。  祥伸は、少しの間寺を離れ、千鶴の墓を訪れるために旅に出た。彼女の墓前にたどり着いた祥伸は手に持っていた桔梗の花を捧げながら、涙を流した。 「千鶴さん、ずっとあなたに会いたかった」   その時、突然、雨が降り出した。強く激しい雨が祥伸の身体を叩き、皮膚から血が滲んでくるようだった。 「このまま、あなたの元にいきたい」  祥伸は、雨に叩きつけられるに身を任せ、墓の前に崩れ落ちた。  雨が止んだ。  突然の豪雨は、止むと空は眩しい晴れ間を見せていた。  祥伸は、濡れた身体を震わせながら起き上がった。 「あなたの元に行くには早すぎるんだね。きっと。わたしはまだ、生きている。そう、生を粗末にしてはいけない。仏に仕える身が愚かな考えに溺れてしまうところだった」  祥伸は、身体に張りついた雨のしずくを拭うとまっすぐに前を向き、頭を上げて歩き墓を後にした。  雨上がりの空は、清々しく心の名残りを払い落としていくような色だった。  祥伸の寺には、桔梗が咲く庭がある。庭に咲く紫桔梗と白桔梗。二つの色が織りなす庭は、まるで祥伸と千鶴が寄り添うように、仲良く風に揺れる。  雨が降り、花びらにしずくを垂らし  雨上がり、桔梗に光を宿すのだ。                了             
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