夏泥棒

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『三澤ってさ、何かエロくね?』 『母親の血じゃねえの』 『ああ。なるほどね』  男子の他愛ない会話に繭はよく登場する。正直、えげつない話題ばかりだ。それは俺にも飛び火する。 『尚之も食われんなよ』 うっせーよ 夜の水商売を生業(なりわい)とする人たち全てがそうではないが、彼女の母親は身持ちの悪い見本みたいな人で、男に媚びて生きていた。こんな田舎だと噂話はあっという間に浸透していく。 『走ってると風になれるよね。嫌なこと全部忘れられる』  初めて会った時に交わした繭の言葉だ。高校の陸上部に入ってから三ヶ月、短距離のチームメイトとして繭と過ごしてきた。母親のせいで彼女はいつも一人だったけど、俺の前では笑顔を絶やさなかった。健康的な色黒の肌と近すぎる距離感のせいか、俺にとって繭は守ってやりたい妹みたいな存在だった。  先日の光景がよみがえる。 夏の県大会に俺は何とか予選を突破して出場を決めた。だけど、繭は行けなかった。 『尚ちゃん。悔しいよ』 『お前が頑張ったのはわかってる。次があるよ』 『へへっ』  ちょっと瞳を潤ませた繭はぺろっと舌を出したが、俺が黙って頭を撫でるとその手を掴んでぽろぽろと涙を流した。 『あー、もう。何で泣くよ』  仕方なく俺は汗くさくない予備のタオルを貸してやった。繭は初めは嗚咽を押し殺していたが、最後は俺にしがみついてわんわん泣いた。こらえていた叫びが堰を切って、温かい涙は俺のシャツを濡らしていった。 全てのことから解放されて部活に専念したくても、心ない中傷の声は彼女の耳の奥に残っている。気にならないわけがなかった。力を出しきれない無念さが伝わってきて、俺まで胸が苦しくなった。 背中をぽんぽん叩いてやると繭は少しずつ落ち着きを取り戻していった。泣き止むと涙を拭いながら鼻声で言った。 『あたし、尚ちゃんのお嫁さんになりたい』 『…急に何を言い出すんだ』 『こんな優しい人、他にいないもん。大人になったら結婚してよ』  真顔で見つめられたら、冗談でも嫌だなんて言えなくなった。繭が隣にいるのは俺の日常になっていたが、それでも結婚なんてまだ先の話だ。 『物好きだな、お前も。タオルは洗って返せよ』  俺がやっとのことでそう返すと、涙の残る瞳で繭は微笑んだ。
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