夏泥棒

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昼飯付きの勉強会は夏休みに入っても何度かあった。繭は一度理解すると覚えが早かった。自力で問題が解けた時の嬉しそうな顔は、俺にも達成感を味わわせてくれた。 『尚ちゃん。海に行きたい』  お盆休みに繭がそんなことを言い出した。 ここは里山だから海までは少し距離がある。列車の本数も限られてるが、日帰りできないことはない。 「三澤の娘だと」  日曜日の早朝、出かけることを家族に告げると、親父は眉をひそめた。 「あの女と遊ぶ暇があったら勉強しろ。孕ませでもしたら目も当てられない」  侮蔑を込めた言葉にかっと血が昇った。 「繭はそんなヤツじゃない。勝手に決めんな」 「子どもに何がわかる。蛙の子は蛙だ」 違う あいつはただ無邪気なだけで 本当はすごい寂しがりで 見ていてやらないと消えてしまいそうで 庇う気持ちは言葉にならなかった。どれだけ心を尽くしても、俺の気持ちは伝わらないと思った。 「そのことに一番傷ついてるのは繭なんだよっ」  代わりにそう投げつけて俺は家を飛び出した。 どいつもこいつも 勝手なことばっかりだ 駅に人影はまだなかった。ベンチで気を鎮めていると、ふわりと香水が風に乗って届いた。白いサンドレスに麦わら帽子の繭が笑顔で立っていた。 「おはよ。尚ちゃん」  服の白さに日焼けした肌の色がくっきりと映えて、そこに夏がぎゅっと凝縮されていた。 「変かな」 「あ、いや。似合ってる」 「よかった」  繭はほっとしたようにはにかんだ。いつもより清楚な姿に、俺はドキドキを抱えたまま列車に乗り込んだ。 ボックス席に向かい合って座ると、繭は陽射しに目を細めて窓からの風に髪を(なび)かせた。言葉少なに頬杖をつく繭を、ずっと眺めていたいと思った。 列車は混雑することなく終点に到着した。ホームに滑り込む直前に車窓の片隅に輝く水面が見えた。 見慣れない街だったが、観光客のための案内板には海辺までは数百メートルとある。駅前の僅かな喧騒を抜けると、すぐに静かな木陰の続く道に出た。 「繭。こっち」  俺は車道側に立って繭を路肩に押しやった。 「車は少ないけど一応な」 「ありがとう」  今日の繭はしおらしい。少しずつ潮の香りが濃くなってくる。やがて防波堤のカーブ沿いに砂浜と青い海が広がって、潮騒が聞こえてきた。
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