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ぐいっと腕を引かれて頬に彼女の唇が触れた。
一瞬、何が起きたかわからなくて固まっていると、繭が見上げてきた。
「今日はありがとね。付き合ってくれて」
「お、おう」
咄嗟に言葉に出来なくて、野暮な相づちしか返せなかった。それでも繭は嬉しそうだった。
「最後に一緒に海が見たかったんだ」
「向こうは海が遠いのか」
「んー。カリフォルニア」
「めっちゃ西海岸だし。てか、英語平気かよ」
あははと笑って、繭はぴょんと道路に降り立つと俺の手を取った。
「帰ろっか。楽しかったね」
「繭」
今度は俺が彼女を引き寄せた。感情のままに唇を重ねると、繭はこわごわ俺を受け止めた。自分の中にこんな気持ちがあることを、俺は今日初めて知った。何度もあふれる想いを伝えて、また腕に彼女を抱きしめた。
「約束だ。絶対戻ってくるって」
「うん! 絶対の絶対ね」
優しい香りと繭の弾む声に涙が滲んだ。これ以上彼女が傷つかないために、今は手放すしかないのか。気持ちだけが前のめりで、隣で見守ることも出来ない自分が情けなかった。
「尚ちゃん、大好きだよ」
繭の語尾も少し震えていた。
波音は穏やかに繰り返し、俺たちを包んで見送ってくれた。
二学期になり、少しずつ夏が遠くなった。
繭がいない日常に寂しくなると、俺は時々教室を抜け出して屋上に出る。風が吹くと忘れもしないあの日の彼女がいるような気がする。
あれほど眩しい夏を俺は他に知らない。繭が夏を全部拐っていって、俺たちの時間は止まってしまった。でもきっと、二人が再会したらこの続きが始まるんだと思う。
日焼け色の笑顔で繭が俺を呼んだら。
『尚ちゃん。ただいま!』って。
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