夏泥棒

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 早朝なのに蝉の声が聞こえる。 既に気温は25℃を越えているだろう。額から目に流れ込む汗をTシャツの袖で拭って、俺はゴールラインを見据えた。まだ湿り気を残す昨夜(ゆうべ)の雨は、太陽の熱で蒸し暑さを増して、余計に体力を消耗させる。 「ラストの腕の振り、気をつけろ」  俺は片手を挙げてコーチに応えた。クラウチングスタートの体勢を取り、ラインに沿って地面に両手をついた。左膝を立てて呼吸を整える。 「用意」  心もち前傾姿勢で、笛の合図と共に俺は大地を蹴った。頬を撫でていく風が少しだけ涼しく感じる。体中に酸素が行き渡る前に、俺は足を、手を、大きく前に繰り出して走り続けた。徐々に疲労で足が上がらず思うように動かなくなるが、顎を引き腕の振りを意識すると少し楽になった。ゴールの先まで駆け抜けると、倒れるように地面に寝転んだ。肩で息をしているうちに周りの音が戻ってくる。 仰向けで見た綺麗な青空に、ふっと影が射した。 「(なお)ちゃん、どいて。踏むよ」  逆光のせいか、日焼けした彼女の顔が余計真っ黒に見えた。 「あ、(わり)い。次飛ぶのか」 「ついでに一緒に飛んでやろうか」  ポニーテールを揺らして、(まゆ)はけらけら笑いながらハードルを並べに走っていった。繭が準備を終えると、俺は立ち上がって迂回しながら戻り始めた。コースをあけるためなのと、彼女の飛ぶ姿も見たいからだ。 繭がスタートを切ったので、俺は立ち止まって彼女に焦点を合わせた。打って変わって真剣な横顔と、ハードルを飛び越えるしなやかな手足の動きに引き込まれる。繭のすらっと伸びた長い足は俊敏な草食獣のようだった。それは絵画のようにただ美しくあるだけで、いやらしい気持ちではなく、俺はつい彼女を目で追ってしまう。 繭は俺の前を風のように通り過ぎていった。コーチの指導に頷く彼女は、選手として誰よりも輝いて見えた。
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