入学式の夢

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入学式の夢

 フロウガンは気絶している間、小学生の頃に帰っていた。 叔父に手を引かれながら、慣れない正装を身に着けて、入学式の行われる体育館へと歩いている。  彼はこの時からすでに、右目をボサボサの前髪で隠していた。緑内障を患い、3歳の時に手術を受けていたのである。    緑色の服を着た執刀医、片目を閉じた息子の姿、摘出されたグチャグチャの眼球……。    手術室の中の光景は、両親に多大なトラウマを残したと思われる。  保護者の立場を放棄したことは、倫理的には重罪となろう。ただ、親というのも1人の人間であり、本能から恐怖を感じた時には、何も言わずに息子の元から去ることもし得る。  叔父は息子の様子を気にしながら、校庭の砂や廊下の木の上を1歩1歩、慎重に歩いていた。親の愛情を知らない甥が、初めて社会の人間と触れあうのである。  自分の注いだ愛情が吉と出るか凶と出るか、叔父は気が気でなかった。  式典は無事に終わり、子どもたちはクラスへ案内された。    保護者たちは教室の最後方に集まり、ときには隣の人と談笑し合いながら、我が子をじっと見守った。  叔父は緊張で体を膠着させながら、甥を見やった。  右目は前髪で隠し、左目からは鋭い光が放たれている。ブカブカの学ランが校庭の砂で白くなり、いかつい印象が際立っている。  こんな子が、クラスに打ち解けるのだろうか……。  叔父は初めて、手塩にかけて育てた甥を信じられなくなった。  周囲の子たちが恐れをなしている中、ふと、前の席のほうからピンク色の髪をした女の子がフロウガンに近づいた。 「なに? キミ。なんで目、かくしてるの?」  女の子がフロウガンの前髪をめくりだしたので、慌ててその手を払いのけた。 「よせよ!」  しかし、その子はすでに、中に潜んでいた手術の痕を覚えていた。「ヘンなのー!」  母親がたまらず駆け寄り、娘を叱った。 「ごめんね、おケガしてない?」  と母親はフロウガンに声をかけた。  叔父はすっかり憔悴していた。この場を丸く収めたい気持ちはありつつも、手足や考えを巡らせるだけの心の余裕はなかった。 「ケガならもうしてんだよ、ほっとけ!」  フロウガンは女の子の母親相手に、怖気づくことなく噛みついた。  母親は自分がトラブルの発端になってしまったと思い込み、「ごめんね、ごめんね」と、録音データを繰り返すように謝った。  叔父は途方に暮れた。  最悪の事態を招いてしまった、学校の初日からこれでは、まともな生活は遅れるはずがない……。  しかし、女の子は違った。 「おかあさん、ジャマしないでよ。せっかくこの子とあそんでたのに」 「人の髪の毛をむやみにめくっちゃダメでしょ!」 「だって、おもしろいんだもん!」 「大事な大事な髪の毛なんだよ! 面白い、とか言っちゃダメ!」  母親は激しく叱責し、デリカシーという難しい概念を娘に教えようとした。  手術を受け、失った目の大事さを理解していないことが、どれだけ目の前の少年を傷つけるのか……考えただけでも、胸が痛んだ。  しかし、女の子はこう言った。 「いいの! だってわたし、この子のこと気にいったもん!」  そんな言葉は、叔父以外の人物から聞いたことはなかった。傷つき、追い詰められたフロウガンにも紡ぎだせるほどの、温かい言葉だった。
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