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「こんにちはー」
控え目に挨拶しながら病室に入ると、一番奥の窓際に母の姿があった。
私達に気づいた母は、嬉しそうに微笑んで読んでいた本を閉じた。
「本なんて読んで、もう平気なの?」
「だってただいるだけじゃ飽きちゃうから。談話室にあるのを看護婦さんが持ってきてくれたの」
母が大腸がんの手術を受けたのは、ほんの数日前の事だった。術後の経過も良好という事で、今日から大部屋へ移動になったのだが、体調は想像以上に良さそうだ。
「具合は? もう平気?」
「順調みたいよ。先生ったら手術前に万が一の時は、なんて脅かすような話ばかりするから、心配だったわ」
「それはこっちの台詞よ。だいぶ落ち着いたみたいで良かったわ」
のちのち責任問題に発展しないよう、ひと通りの可能性や危険性については家族同席のもと本人にも説明せざるを得ないのだろうが、聞かされている側としてはたまったものではない。
手術後もしばらくは不安を抱えたままの状況が続いていたが、もう最悪の状況は避けられたと考えて良さそうだ。同室の患者さん達にも癖の悪そうな人は見当たらないようだし、母も私も、まずはひと安心だ。
と――
「おや、ハルちゃん。どうしたの? こっち来ておばあちゃんに顔を見せてちょうだい」
気が付けば息子の悠斗は、病室の入り口に立ち止まったまま不安げにこちらを覗いていた。
「悠斗、来なさい」
手招きしてももじもじするばかりで一向に入って来ようとしない悠斗に、私と母を顔を見合わせて吹き出した。
「どうしたのかしら? ちょっと会わなかっただけで、恥ずかしくなっちゃったの?」
「そんな事ないでしょう? お母さんが倒れたって聞いて、悠斗も心配してたから。ちょっとびっくりしてるだけだと思う。ほら、早く来なさいよ」
赤ん坊の頃からたびたび預かって貰う機会も多かっただけに、今年五歳になった悠斗は昔からおばあちゃんっ子だった。いつもなら母の顔を見ただけで喜んで飛びついていくというのに、人が変わってしまったようで不思議でならなかった。
「ハルちゃん、ばぁばもうすごく元気になったんだから。こっち来てごらん」
しかしどんなに母と私が呼んでも、ベッドの足元まで近づくのがやっとで、悠斗は表情を強張らせたまま頑として母に近づこうとはしないのだった。
「うちの孫もね、前に来た時やっぱりママの側から離れなかったのよ。小さい子にとっては病人っていうだけで怖かったりするみたい」
そんな悠斗を見るに見かねて、隣のベッドのご婦人が助け舟を出してくれた。
「あら、そうなんですか」
「病気で入院してるなんて言うと、近づいたら自分にもうつるんじゃないかって気味悪がったりしてたんですって。退院してもしばらくは私が口をつけたものは嫌がったりしてたのよ」
「言われてみると、子どもってそういうところあるものねぇ」
子どもが小さいうちは、ある日突然人見知りを発症してみたりと、思いも寄らない反応を見せる事もある――なんて母も私もその時は納得したのだが……。
「ばぁば、怖かった?」
「ううん」
帰りがけに私が聞くと、悠斗は俯いたまま首を振った。
「ばぁばじゃない」
「……どういう意味?」
「ばぁばの隣に……いたでしょ、黒い人。あの人が、怖かったんだ」
悠斗の言葉を聞いて、私は凍り付いた。
悠斗の口から黒い人の話を聞くのは、これが二度目の出来事だった。
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