cielo blu

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 そんな声が聞こえてきた。ここは不思議なもので、いつからあったのかまったく分からないがいつの間にかそこにあって、ふとした時にそこにあることに気付かされるのだ。店名の由来となったtake shelter from the rainは、雨宿りを意味するらしい。私にも雨が降っているというのだろうか。それも、十年も。  十年前と言えば、結婚まで考えていた男と別れたときだったことをふと思い出していた。それはもう大恋愛だった。私たちは私たちしか世界には要らないかのように三年ほどを過ごし、そこからお互い自分の時間を持つようになり、気付けば二人の間には埋めようのない溝が横たわっていた。何度もぶつかった。それは浮気を疑ったこともあったし、日常の些細なすれ違いもあった。なによりも私たちはどうでもいいことは話してきたくせに、大事なことはいつの間にか話さなくなっていたのだった。そうなってしまったのはなにが原因だったのか、今思い返してもやはり分からない。ただ、そういう空気感が二人を包んでいたように思う。あの頃、純也はなにを思っていたのだろう。 「お待たせしました。キリマンジャロとレモンのタルトです」  思考を遮るように、マスターがオーダーを運んできた。そこでふと、マスターに聞いてみることにした。 「マスターは、人をこれでもかってほど愛したことはありますか?」  顔が整っていて、年齢は読めないけれど私よりいくばくかは若そうなマスター。完璧に見えるこの人でも、周りが見えないほどの恋をしたことはあるのだろうか。 「そうですね…なくはないと思いますよ」  微笑みを崩さずにマスターはそう言った。 「その人のこと、今、どれだけ思い出せますか?声は、顔は…癖や好きなものは思い出せますか?」 「もう随分前のことなのではっきりとは。桜さんは、忘れてしまったんですか」  そう聞かれて、どう答えたものか逡巡する。顔は思い出せる。名前も思い出せる。好きなものも多少は思い出せるのに、声だけが遥か彼方に消え去ってしまっていたのだった。 「大体は思い出せるんです。……五年も同棲をしていたので。なのに、声が思い出せないなって」 「人は忘れる生き物ですからね。すべてを、覚えている必要なんてないですよ。それでも、きっと、大事なときには思い出せたりするものですから」  頭でも撫でるかのような優しさでそう言うと、マスターは下がっていった。  人は忘れる生き物――確かにそうだ。純也のことだけじゃない。ほかにも昔付き合っていた男のことも、いつかに仲の良かった友人のことも、往々にして人は忘れていく。それを薄情と思う私は、やはり繊細すぎるのだろうか。
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