cielo blu

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「初対面の人となら、気兼ねなく話せることってありません?」  カウンターに座っただろうお客の声が聞こえてきた。渋みのある低めの男性の声だった。私はいけないと思いつつ耳を傾けてしまった。 「ありますね。新しく行く美容院や接骨院、それに偶然意気投合した酒場の隣の人となんかだと、次に会うことはないんだからと思うのか、つい話し過ぎてしまったりしますよね」  マスターがそんな言葉を返していた。そういえば、行きつけばかりに行っていて、最近は新しい人に会うこともなくなったなと思う。 「そう。で、二回目に行ってみると案外話すことがなくなったりして気まずくなるんです。そういうことがちょくちょくあって、もう出会いもなくなりましたね」  はは、と軽く笑う男性もまた、私と同じように出会いを失っているようだった。もうこりごりだった。あんなに愛し合ったのに、それでも愛に底が見えたとき、もう人と恋をするのはこりごりだと思ったのだ。新しい人間関係も同様に。  人と離れるのは寂しい。それは、失う寂しさであって未練とはちがう感覚だった。未練はなかった。もうやっていけないと思ったのだから。お互い話し合って、納得して、別れを決めた。それは疑いようもない事実だった。人生において重要だったものを失う感覚は、慣れるものじゃない。その切なさに、心がまた一つ磨り減るのを感じるのだ。私は一人で生きた方がいいのかもしれない、あのとき私はたしかにそう思った。  なにを今更、十年前のことなど思い出しているんだろう。今私に彼氏や夫がいたとしたら、私はこうして昔の人のことを思い出して胸が痛くなること自体に、申し訳なさを感じるのだろう。過去は消せないのに、アルバムを見返すことを悪いと思うようなそんな感覚に私はなるのだろう。生きてきた軌跡は、恥じるものでもなんでもないのに。  そこまで考えたときに、私はつい笑ってしまった。なぜ、居もしない彼氏や夫にまで思いを馳せて気に病んでいるのだろうという根本的なことに気付いたからだ。私はいつだって考えすぎるのだ。それで、心を病んで仕事を辞めたのではなかったか。考えないでいるということはこうも難しいのだな、と改めて感じながら、既に冷め始めたキリマンジャロを一口啜ったのだった。 「ご馳走様です」  そう言ってレジに向かうとき、カウンターの背広の男性の後ろ姿をちらっとだけ見た。背筋の伸びたその姿は、とても雨が降っているようには見えなかったけれど、きっと彼の心にもなにかしらの暗雲は立ち込めているのだろうと思うと、人はけして見た目で判断するものじゃないなと思った。  カラン。  外はやはり嫌になるほどの快晴で、夏真っ盛りのこの時期に日はまだ落ちてはいなかった。そういえば、背広ということは会社員だろうに定時に上がれる人なんだな、と先ほどの男性客を思い浮かべていた。
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