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 クソ。この煙幕、やっぱり催眠ガスか。しかも、威力がかなり残って、いて、あとから駆けつけたやつまで、その、眠っちゃう……ふあぁ。 「だ、ダメだろ、俺。ね、寝るな……」  みずからに言い聞かせるも虚しく、未だ薄く煙幕の残る床に片膝をついてしまう。  瞼が勝手に下がる。あくびが漏れる。煙幕を吸い込んではいけないだろうに、口を覆うなども出来ない。なにをしたらいいかの判断が、ど、どんどん鈍って、いく、よう、な……。 「――あらあら。まだ起きてる。精神力のお強い警察官ですことォ」  どこからか、女声が聞こえる。夢か? それとも、かたゆでたまご? 「眠いでしょう? いいんだよ、そのまま横になって」  カツーン、カツーン、とヒールが床を行く音がする。それはどんどん、俺に近付いてきている。 「さぁ、よい子はねんねんの時間でちゅよぉー」  ま、まずい、逃げられる。俺の背後には、非常用出入口があるんだ。 「と、通さない。かたゆでたまご……!」  眠い目をこじ開け、声の主へ顔を上げる。正直、いまの俺は幼児よりも非力になっていることだろう。そんな俺一人じゃここを突破されてしまう。せめて威勢だけでも、向け続けておかなければ……きっと、都築巡査が、来てくれる、から。  暗がりを照らすべく、左手に握っていた携帯用ライトを声のする方へ向ける。  高いヒールの革ブーツ。その身に貼り付いたような黒い服。隙なく徹底管理されたであろう胸元と腰のしなやかな湾曲。いやに妖艶な女だ。  そして、展示品である『銀華咲く盃』がその女の手にあることを目視したことで、俺は目の前の女がかたゆでたまごであると確定認識した。  眠ってなどいられるか。きっと……いや確実に、ここで俺が食い止めるんだ。そう強く思いながら、左手の携帯用ライトで女の顔を照らす。  同時に、天井近くに開けられた明かりとり用の横長の窓ガラスから、満月よりも少し欠けた月――寝待(ねまち)月が偶然にもスポットライトさながらに光を降ろし、俺に注がれる。女にも俺個人を認識するのに充分な光量が与えられたということは、同時に互いの顔がバレてしま――。 「え……」  息を呑むように見つめ合っていた。まるで時が止まったかと思えるほど、互いに動けない。  俺が向けた携帯用ライトで照らされている女……いや『彼女』の顔がみるみる曇っていく。憎たらしいほど余裕のある笑みから、私的感情に侵食された真顔に変わったのだ。 「た、(たく)ちゃん……」  細くて弱い声色。半信半疑の、まるで問いかけるような呼び声に、俺の胸の奥底の懐古感が八つ裂かれるように酷く痛む。  俺――外川琢心(たくしん)を『琢ちゃん』と呼ぶのは、この世でたった一人しかいない。小学校高学年の頃に仲良くなった、俺が一方的に恋い焦がれた『四歳歳上のお姉さん』。 「()――」 「いたぞ! かたゆでたまごォ!」  静寂を裂いた一声に、はたと我に返る。かたゆでたまごの女が公私を切り替えたのがわかった。そういうハッとしたときの呼吸音が聴こえた。 「逃がすなッ、捕まえろ!」 「かかれぇー!」  土橋課長がA班とB班を引き連れ全力疾走でこちらへ向かっている。「助かった」と「まずい」の二極した気持ちが、俺を無意識的に行動させた。 「きゃっ?!」  彼女の右足首を掴む。身体がダルい、催眠ガスのせいだ。しかし、俺の手を振りほどくための抵抗が遅れたために、より強固に掴むことができた。 「ちょ、は、離してッ!」 「離、さない……警察官として、盃は、護らなきゃ……」 「だめよ。これはむしろ盗られたものなんだからっ。だから絶対に、私が持って帰――」 「このままじゃ捕まっちゃうよ?!」  視線が再びかち合う。困惑に歪んだ彼女の顔は懐古と恋情を呼び覚まし、俺の義務感や正義感を無効化していく。 「今日のとこは、盃だけ、返して。それでもう、行って!」 「かーたーゆーでーたーまーごぉー!」  土橋課長の怒号が近付いてくる。このままでは片手の指の数よりも少ない秒数のうちに捕まってしまう。 「……ばか」  彼女は小さく独り言を残して、手にしていた盃を俺へと放った。盃キャッチのために彼女の足首を開放。すると途端に、彼女の姿はその場から消えてしまった。 「おいっ、意識あるか?!」 「盃はどこだ?! 探せ探せぇ!」 「B班はワシとともにやつを追え!」  誰か複数人の足音が俺を取り囲んだことと、彼女がこの場から逃げ去ったことへの安堵で充たされて、俺はずるずるとその場に伏してしまった。 「さ、盃……は、無事です……」  右手に握り締めた盃から、彼女――瑠由(るう)ちゃんの匂いや指紋が出ないことをひたすら願っていた。
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