偽うさぎ

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偽うさぎ

 荒く短い呼吸音が繰り返される。  声すら上げず、女が走り去っていく足音だけが亜佑美の耳に届く。その音も耳の奥に張った膜を通して遠く聞こえていた。  眞くん。  夫の名を呼ぼうとして、唇が貼りつくほど乾いているのに気づく。亜佑美はわずかな唾を飲んだ。嚥下(えんげ)する音がぶつりと膜を破る。 「眞くん」  夫の肩に手をかける。低く呻き声を洩らし、眞が身体をよじる。 「……眞くん」  錆びた金属の臭いが鼻をつく。脇腹から生えたナイフが、苦しげな動きに合わせてちかちかと光っている。  動かしてはいけない。抜くか。救急車を、……なんてことを。  稲妻のように恐怖が走る。亜佑美は投げ捨てられたバッグを手繰り寄せる。救急車を、と画面へ指を伸ばそうとして電話を取り落とした。震えの治まらない手を見下ろす。視界の端がぶわっと滲み出す。  発信履歴の一番上に残っていた名前で、指が止まった。コールボタンへ触れる。縋るように握りしめた電話を、亜佑美は頬に押し当てる。 「……茉莉花ちゃん?」 『はい! 丁度よかった、今ケーキ買ってきたんです。急に行けなくなって残念で、亜佑美さんち〇〇駅の方ですよね?』  澄んだ声の安穏とした響きを耳にした瞬間、両の目から涙が溢れ出した。 「助けて」 『えっ?』 「眞くんが……どうしよう、私、旦那が死んじゃう」  悲鳴が電話口に反響する。堰を切ったように嗚咽が洩れる。 「……落ち着いてください。すぐ行きますから。亜佑美さん、大丈夫です。大丈夫」  鈴の鳴るような声が、戦慄する身体に繰り返し響き続ける。     *  亜佑美さん、と名前を呼ばれたのはおそらく何度目かだったのだろう。  ようやく亜佑美は顔を上げた。薄手のコートを羽織ったまま、茉莉花が悲痛に顔を歪めている。手が握られる。シンプルな単色のネイルを施した茉莉花の指は冷たかった。 「茉莉花ちゃん……」 「心配しないで」  包むように手の甲を握って、茉莉花は頷く。 「救急車呼びましょう。その方が、早く出てこられますから。大丈夫ですよ、亜佑美さん」  違和感が、棘を現して胸を縛る。  肩へ回る茉莉花の腕は、ぬいぐるみを抱き寄せるかのように、柔らかな感触をしていた。 「……怖いですか? どうしても怖かったら、私がこれ(・・)、もらっちゃいますから。……そしたら旦那さんとは会えなくなっちゃいますけど……、亜佑美さんは心配しなくていいですよ」  茉莉花が目を伏せて、眞のワイシャツから生えたナイフを一瞥する。「あの人……立石さん、見られちゃったかな。厄介だな、ばれちゃうか」 「……なにを、言ってるの?」  発語しようと努めてから、数秒後に声が洩れる。  亜佑美は黒々とした睫毛に縁取られた茉莉花の瞳を凝視した。ベースメイクのよれた頬も、リップの色味を残した唇も、マネキンのようにどこか現実味を欠いて見えていた。  うふふ、と茉莉花が破顔する。 「おかしいですかね、私が言ってること。やっぱり亜佑美さんって本当にフェアな人ですね。会って話してみてよくわかりました。やっぱり、こんな人亜佑美さんには相応しくなかったんですよ。浮気なんかして。こんな、強くて綺麗な奥さんがいるのに、理解できない。なんであんな女と」  ──なにを言ってるの?  言おうとして息を吸い込む。雲のように頭上に立ち込めたのは、既視感だった。 「大丈夫。こんなことにまでなって、ほっとけません。眞くんがいなくても、ずっと、ずうっと、私が傍にいますから。何年だって待てます、私取り柄なんてないけど、亜佑美さんのためだったらなんだってやってきますから。ね? 大丈夫」  ──ねえあーちゃん、あの人は駄目。彼氏なんてまたすぐできるよ。だから、あいつは駄目。  初めてできた彼氏を紹介したとき、腕を抱き込んで上目遣いに自分を見上げた望の顔が、脳裏によみがえる。  柔らかい身体をしていた。このままいつまでも触れていていいか、不安に思えるほど。  背中に触れる茉莉花の髪から甘い香りがする。望と同じ、柔らか過ぎる身体をしている。 「あ……あ……」  両腕が亜佑美の肩を包む。それだけで皮膚がざわついていく。  糸が切れたように、全身を縛りつけていた緊張がほどけていた。撹拌(かくはん)されていく感情の波間に、奇妙な安堵が渦を巻いている。  重なった茉莉花の手が、緩やかに指の間を割っていた。ぴくりと震えた亜佑美の手が、微かな力を込めてその手を握り返す。  指と指とが絡み合う。ささやく声が甘く耳を響く。 「やっと捕まえた」
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