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肉食獣
年上の女性社員と折り合いが悪く、茉莉花が悩んでいることは事実だったようだ。
「気にした方が負けだと思って。立石さんだけじゃなくて、こういうの初めてではないので……でも、最近どうしても、噛み合わなくなってきちゃったんです」
語尾を萎ませた茉莉花の言葉に頷き、亜佑美はしばらく聞く側に徹した。振られた仕事の引き継ぎが不足し、トラブルになった一件を皮切りに、日頃向けられる悪意や陰口に限界が来てしまったのだと言う。
語尾を濁したり、避けるように目を逸らすのもあまり褒められた態度ではないと思うけれど。
そう言及したくなるのを抑え、天秤の両側に錘を乗せる心地で亜佑美は頷き続けた。
茉莉花に非がある、と言える立場に自分はない。事実を事実として述べ、必要以上に相手を非難しない茉莉花の口ぶりを聞いていてもわかる。夫の言う通り「いい子」だ。が、相手方の立石と茉莉花との相性が悪いのだろうとは察していた。
「……結局、私の気にし過ぎかもしれません。こういうのって」
そんなこと、と隣で言いかけた眞を遮って亜佑美は言う。
「わかるよ。考えないでおこうって思っても、ふっと湧いて出てきちゃうのよね。そういうの」
一瞬落ちた沈黙のあとに、茉莉花が深く頷いた。目の縁が微かに潤んでいる。
「そうなんです。最近、駄目で」
「いいんだよ。仕方ないよ」
「気がついたらそのことばかり考えちゃう、って、よくないですよね。気分転換、下手なのかな」
「そうかあ。ストレス発散はした方がいいよ」
「私、手数が少ないのかも。ほとんど家にいて……亜佑美さん、なにかお勧めありますか?」
「ああ……それは」
「美味しいご飯。と、酒」俺も混ぜてくれ、と言わんばかりに眞が口を挟む。茉莉花が眉を持ち上げる。
「いいですね」
ひと呼吸遅れて亜佑美は頷いた。「お酒は眞くんだけでしょうが」
*
「ね。いい子でしょ」
ローテーブルに並ぶマグの一つに手を伸ばして、眞が亜佑美を見上げる。耳にぶら下がるピアスを外していた亜佑美は、ちらっと壁を仰いで頷く。
美味しいものを楽しく食べるのはなによりのストレス解消だ、と三人で食事へ寄ったあとだった。
「本当に私、ご一緒しちゃっていいんですか?」と茉莉花は当惑を隠さなかった。しかし、水を向けられたように夫婦がその言葉を打ち消せば、幾分表情を寛げて会食を楽しんだ。空気に慣れてきたのだか、口数も笑顔も多かった。
「うーん。……」
いい子だけど、どうしてもああいう女の子と合わない人って絶対数いると思うんだよね。言葉を呑み込み、亜佑美はテーブルにピアスを置く。ピアスもハイヒールも、身体から取り払うときが一番心地よい。
「そうだよね、いい子。仕事にも真面目そう。想像つくなあ」
マグを両手に包みながら、亜佑美は笑う。だろ、と頷く眞の横で、マグの中を揺れるコーヒーの黒い海に目線を落とす。
茉莉花と合わない人はいるだろう。けれどその誰かはおそらく、言葉に変換し難い靄のような感情を、表に出すことはできない。
茉莉花がいい子だから。弱いいい子は、庇護を受けるに相応しい存在になり得る。
並の神経で戦ってきた女たちは、彼女にやすやすと牙を剥けない。草食動物を捕食する獣に認定される事態を呼ぶ、と言ってよいからだ。
亜佑美は無言でコーヒーをすする。端から、眞に理解されるとは思っていない。こういうことを言ったそばから私が怖い女になっちゃうんだろうな、と思考しながら、スマートフォンを持ち上げる。
通知を開くと、茉莉花に教えたメッセージアプリに返信が届いていた。
「……ねー眞くん、あの子になにか、私のこと話したことある?」
「うん? 普通に。話したじゃん、米炊き忘れたーとかそのくらいなら」
再度画面へ目を落とし、亜佑美は首を捻る。「そう」
億劫そうに眞がスマートフォンを置き、テーブルのリモコンへ持ち替える。
「なんで?」
「うん。私の漢字よくわかったなあって思って。私よく真ん中が自由の由、の方の亜由美に間違えられるからさ。歩くに美、とか」
訝しげに眉を寄せた眞が、ふいに笑う。
「なんだ、そんなこと。事務仕事でなんか名前見る機会でもあったんじゃないの? それに前、亜佑美さ、打ち合わせ用の書類届けてくれたことあっただろ。あのあと、奥さん美人ですね、とか会社の子たち喋ってたんだよ。小木さんもそれで覚えてるんじゃないの」
「えっなにそれ嬉しい。もっと言って」
調子づいた素振りで食いつきながら、亜佑美の心中は冷えていく。今が旬の若い娘が、先輩の配偶者をいちいち名前までチェックするだろうか。よほど好奇心を持て余しているか、あるいは、その男に好意があれば。
亜佑美は夫のザッピングするテレビの画面をただ眺める。簡単に済ませようと笑顔のスタンプだけを送りかけた指を止め、メッセージを文末まで打ち込む。
『……いつでも相談してね。またご飯行こうよ』
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