袋小路

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袋小路

 おそらく茉莉花にとっての立石がそうであったように、茉莉花の存在はたびたび亜佑美の頭をかすめた。  意図して考えようとしている訳ではない。仕事後の夕飯作りや休日の家事をしているとき、ふいに茉莉花の一挙一動が頭をもたげていく。意地の悪い言葉が浮かび上がると、亜佑美はクエン酸を振りかけたシンクを普段より丁寧に磨き上げた。  厄介な女にはお引き取り願いたい。しかし、亜佑美とて悪意の袋小路にいつまでも留まりたくはなかった。  (のぞみ)のことを思い出したのは、ハンガーごと洗濯物の皺を振って伸ばしているときだった。 「どうしても、そっちがいいの、あーちゃんのが欲しいの」  のんちゃん、と呼んでいた従妹の望は、五歳ほど年下だった。妹のいない亜佑美にとって愛しい存在だった。駄々をこねて甘えられると、亜佑美も強く言えず、よく玩具を譲った。今よりずっと差を大きく感じた年下の望に付き合って、幼い遊びも一緒にした。たまにしか会えない亜佑美の周りをぐるぐると歩き回り、望は目を光らせた。 「あーちゃんおっきい、そんなところまでとどくの、すごい。いいなあ、のぞみもすぐこーんなに大きくなるよ」  上目遣いで笑う目が、なにより愛らしく、憎らしい。  物干し竿にハンガーを引っ掛けながら亜佑美は理解した。腹の奥に沈んでいく澱の正体を、半分手の内に掴んだ感触があった。  奇妙にも晴れ晴れとした心地で、風にたなびく洗濯物を眺める。  のんちゃんに似ている。だからどうした、とひとつの懸念を振り飛ばして亜佑美は空を仰ぐ。快晴だ。  学習済であった。あの子はのんちゃんではない。     *  茉莉花とは数回食事をした。そのうちの一度は買い物にも繰り出した。眞が不在だったこともあり、女同士で洋服をひやかして街を歩いた。  亜佑美の狙い通りだ。形だけでも女同士で結託してしまえば、たとえ隣の芝に目が眩んでも気が咎めて正気に戻りやすいだろう。  身綺麗な若い女の子の隣を歩くのだから、と思えば亜佑美のメイクには数工程上乗せするほどの熱が入った。  服装は普段通りだ。髪型も体型も長く変わっていない身体に、不慣れな洋服を合わせるとちぐはぐになる気がしたためだった。亜佑美さあん、と屈託なく手を振る茉莉花と合流すればすぐ気にならなくなった。 「……わ。可愛い! これもセール品ですかね」  靴屋の店先に並ぶパンプスを前に、茉莉花は身を屈める。リボンのシューズクリップに飾られた色とりどりのヒールを、花でも愛でるかのように目を輝かせて眺めている。 「少し見ていいですか?」 「いいよ、本当に可愛いね。今の服にも絶対似合うよ」 「こういうアイボリー欲しいなって思ってたんですよね。サイズ……S残ってる」  Sサイズのパンプスなんてシンデレラみたいだ、と複雑な笑いを浮かべながら亜佑美は頷く。真っ先にリボンのパンプスへ伸びた茉莉花の手が、早々に止まる。見ると彼女ははにかんで目を伏せた。 「リボンって、子どもっぽいですかね」 「なに言ってんのよ」  私に訊く? 下手したら十個上だよ? と、もう少し親しくなっていれば気楽に噛みついていたかもしれない。亜佑美は苦笑する。 「全っ然大丈夫だって。私茉莉花ちゃん乙女にしか見えないよ」 「いやいやっ。自覚あるんです、私少女趣味で。こっちの方が大人っぽくて、頼れる社会人に見えるはず……」  さまよう茉莉花の手が一足の靴へ向けられる。パールピンクのパンプスはアイボリーによく似た色味をしていた。甲に豪奢なビジューの飾りが光っている。 「でもちょっと……結婚式用っぽいですね?」 「なんだろう。飾りが大きいのかな? 可愛いけどね」  フォローのように付け加え、亜佑美も首を傾げる。唇に手を当てて考え込む茉莉花が、未練がましくリボンのパンプスを横目に見た気配があった。 「いいじゃん、リボンだって全然。茉莉花ちゃんならきっといくつになっても似合うよ。私はもうこんなだけど」  明る過ぎるほどの声で亜佑美は笑い、短い髪を掻いた。自分相手の人形遊びが楽しかったのが何歳の頃だったか、もうよく覚えていない。シンプルなショートカットも、定番をなぞるばかりのファッションも理にかなっている。  大げさなほどに茉莉花が頭を振るう。 「こんななんてこと、ないです。亜佑美さん綺麗でかっこよくて……その、とっても素敵ですよ」 「えー。優しーい」  安価なラップのような薄っぺらい笑い声が、亜佑美の口をこぼれる。  茉莉花が試着をしている間に、なんとなしに棚に並ぶ靴を見て回った。ベージュ色をしたミュールサンダルの前で視線が止まる。爪先の出たシンプルなデザインで、持っている服に合わせやすい。ヒールが太く歩きやすそうにも見えた。 「そういうの便利ですよね」  亜佑美は顔を上げる。微笑んでいる茉莉花と目が合った。 「……ね、本当に。一足あったら」 「履いてみます?」 「うーん」  返事を濁しながら、スツールに腰かけて足を通した瞬間、買いだ、と決めた。インソールが柔らかく、甲の広さも合っている。 「ゆっくり見なくていいんですか?」と眉を下げる茉莉花と並んで会計へ向かう。「いいの。履いてみてぴったりだったから」  茉莉花がふと亜佑美の手元で視線を止める。自分の持つパンプスと見比べて呟いた。 「これ同じメーカーなんですかね」 「本当だね。ヒールのデザイン一緒だ」  亜佑美も茉莉花の抱えるパンプスへ目を向ける。揃いのチャンキーヒールに、ゴールドのラインが入っている。 「わあい。リンクコーデだ」  思いがけず目を細めて茉莉花が言う。友達と帰り道を歩いている学生のような無邪気な笑顔だった。 「ねー」笑い返して、亜佑美はそっと目を伏せた。学習済のはずだ、と言い聞かせるように内心で繰り返す。
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