振動音

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振動音

 眞の黒いスマートフォンが短く振動音を立てたとき、まだ浴室からはシャワーの音が聞こえていた。 「ああ……ゲームの通知かな」  つい先ほど、詮索してもいないのにそう呟いた夫の声を思い出す。亜佑美は洗濯かごにタオルと布巾(ふきん)を放り、洗面台に置かれたままの端末を一瞥する。 『新着メッセージがあります』  細かな水音はまだ聞こえ続けている。  既読になったメッセージを未読に戻す方法はない。  やり方を調べようか? 思考だけが頭をかすめ、泡のように立ち消える。掌からはみ出すほどの大きさの端末に、指が吸い込まれていく。 『新着メッセージがあります』  再度、スマートフォンが振動する。警告めいた音に、すんでのところで手が止まる。  水栓を閉める音に気づいたとき、亜佑美は反射的に(きびす)を返していた。足早にキッチンへ向かい、目についた台拭きを両手に握る。  ぼんやりと台の上の水滴を拭き取っている間に、普段と同じボディソープの香りを薄く残した夫が背後をすり抜ける。 「あれ? 麦茶ないなあ」  冷蔵庫を開いた眞を振り返って、亜佑美は口角を上げる。 「あーまじかあ。作らなきゃね」     *  結婚を機に、二つに分かれたベッドの上で、液晶画面の光が天井を照らしている。  眞は眠っている。点いたままの電話の画面が勝手に切り替わる。おそらく経験値稼ぎ用のオートモードなのか、ゲームはプレイヤーを置き去りにして対戦を続けていた。非現実的なほどにスレンダーなキャラクターが、画面の中で打撃を受けて震えている。  画面に触れれば形跡が残るかもしれない。気配で、ふいに眞が目を覚ましてしまう事態も考えられる。  これが敢えてならとんでもない策士だ。しかし、夫に限ってないだろうな、と亜佑美は考える。浮気の隠蔽(いんぺい)工作をほぼしない丸腰の防備が、数年前の亜佑美をそう思わせた。以降、その想像が変わることもない。  半口を開き、穏やかな(いびき)をかいている眞を見ていると、馬鹿なのかな? と口元が歪みそうになる。  亜佑美は寝具を引き上げて目を瞑る。今晩、この一連の動作を何度繰り返したか覚えていない。眠気は訪れなかった。  気がつくと自分のスマートフォンを握っていた。機械的に開いたSNSアプリの画面では、シロップとフルーツに彩られたスイーツ、イルミネーションと、写真映えする画像ばかりが続く。最後の一枚に、今では年数回会う程度の関係に落ち着いた旧友が笑っている。  にわかに華やいだ気持ちが、ぽつりと一点の染みに(かげ)る。  最後に会ったとき、この友人が妊娠したと聞いたのを思い出していた。声をひそめて笑う顔に含みはなく、本当に伝えるタイミングを迷っているように、亜佑美には見えた。悪意のない笑顔が眩しかった。  幸せな人を見て喜べないときほど、侘しい瞬間があるだろうか。  どうしても子どもが欲しい訳ではなかった。元々そんなに子どもが好きな訳ではなく、今も亜佑美自身に強い望みはない。眞も結婚以来、自然に任せようとしか口にしない。  それでも一つの考えが頭をかすめる。  もしも子どもができれば、今と少しは違うのか。その可能性を考えて、生命を望むことは軽率過ぎはしないだろうか。  画面の上を、漫然と指が動き続ける。ふと、消し忘れた換気扇の音に気づくような感覚に陥った。吹き抜ける隙間風のあと、耳の内側に閉塞感を覚える。甲高い音が聞こえ出す。  耳鳴りだ、と認識してようやく亜佑美の手が止まる。  目に染みる白い画面はショッピングサイトのものだった。  けばけばしい色をした下着が並んでいる。黒いサテン素材のベビードールに、眞のゲーム画面で笑う女性のキャラクターを思い出す。衣装は同じ艶のある黒だ。  ぞっとしていた。何を思いついて自分がこの画像まで辿り着いたか、よく覚えていない。思い出したくもない。  亜佑美は目を閉じた。枕の位置を直し、掛け布団を肩へ被ってからも、手には電話を握ったままだった。  手を空にして目を瞑れば、真正面から迫る悪夢が眠りを妨げる。明日の仕事と、その後に控える家事のために、目だけでも休めなければならない。
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