二人分

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二人分

「これって、本当に……」  大丈夫? とまで訊くのは流石にはばかられた。贔屓目に見ても大惨事としか思えないフライパンの中身を、亜佑美は覗き見る。  キッチンに立つ茉莉花が苦笑する。 「そう思うでしょう? 大丈夫。な、はずです。ここから……」  焦げたトマトとスパゲッティの中に、水が注がれる。亜佑美がはらはらと見守っている間に、フライパンの中身が煮詰まっていく。 「完成です。暗殺者のパスタ」  皿に盛り付けられたパスタは、普段のトマトソースよりいくらか褐色に近かったが、濃厚で味わい深かった。焦げ目をつけていたスパゲッティも香ばしく、唐辛子の辛みが程よく効いている。  巨大なうさぎのぬいぐるみの横で、亜佑美はフォークを置いてため息を洩らす。  風変わりなパスタが話題に上り、食べてみたいと言ったのは自分の方だ。上顎に一つできた口内炎が治りきっていないのが、心から惜しかった。 「本当だ。全然大丈夫だったわ、ごめんね。すごく美味しい」 「途中見た目やばいですよね。けど、焦がすのがポイントらしくて。あれくらいが美味しいんです」  ローテーブルの向かいで、茉莉花がくすぐったそうに笑っている。  ここまで懐かれるとは予想外だ。数回目の会食にと茉莉花の自宅へ招かれたとき、亜佑美の方が一瞬返答に詰まった。「全然いいですよ、私」公私の壁を自ら取り払うように笑う茉莉花は、ひと振りほど煩わしくも、まるで妹のように微笑ましくも見えた。 「ご馳走になっちゃって、ありがとうね。本当に美味しかった」  食事どきを避けて午後にお茶でも、と当初提案したのは亜佑美だった。「せっかくだから一緒にお昼食べませんか?」と笑う茉莉花に、一瞬躊躇ってから素直に頷いた。若者らしい無頓着な感覚は眩しくもあった。 「人の手料理が食べられるなんてありがたいよ。自分の料理なんて飽きるもん、作ろうって思った瞬間に味思い出しちゃって」 「いつも作ってる人ならでは、ですね。いいなあ、羽田さんいつも亜佑美さんのお料理食べられて」  用意した頃に今日はいらないって言われる日もざらだけどね。込み上げた言葉は喉に留めたまま亜佑美は笑う。 「そんないいものじゃないけどね。ほら、子どもの頃外食とか嬉しくなかった? お母さんのご飯って飽きちゃうじゃない、うちの人も内心そういうのあるんじゃないかなあ、とも思うよ。時々」  茉莉花が、扇のように広がる睫毛を持ち上げる。  どうかしたのかな、と覗き込んだその姿を、既にもう夢で見たことのある錯覚に亜佑美は陥った。自宅で食事をしながら彼女と話すのが初めてではないような、もうずっと前から茉莉花とは友人同然の付き合いをしていたような感覚が、不思議と肌に馴染んでいる。  奇妙な直感を打ち消すように、亜佑美は首を横に振った。 「……ああごめん。うちの人、とか、恥ずかしいな」 「そんな。全然」  糸が切れたように茉莉花が破顔した。そわそわと唇に指を押し当て、呟いている。「そうかもしれないですね。お母さんのご飯が、一番美味しいですけど」  食後のデザートを前に話し込み、茉莉花の家で夕方までの数時間を過ごして家路に着いた。  後回しにしていた家事を終えても、眞は帰宅しなかった。キッチンに立つ頃合になってメッセージを打つ。  空腹は覚えなかった。自分以外の手料理が新鮮だったのは本音だ。手製のレアチーズケーキもさっぱりとした甘さで食が進んだ。  少し重い冷凍室の扉を引く。魚の切り身が数切れ。鮭ならば眞も食べるが、あれば肉の方が好ましい。  パックごと冷凍した豚薄切り肉は、眞一人の夕食には多過ぎる。小分けの鶏もも肉であれば適量だ。  親子丼と味噌汁と和え物と。そこまで想像して、不本意そうにスマホを箸に持ち替える眞の表情が思い浮かぶ。  揚げ物は掃除が面倒だけれど、唐揚げの方がお腹にたまるだろうか。そうしよう。亜佑美は下段の野菜室に手をかける。葉野菜が残っていれば、あとはどうにかなる。  スマートフォンの通知に手を休める。メッセージは眞からのものだった。 『ごめん 今日夕飯大丈夫だわ。ちょっと話長引いてて』  ……『うん。まりかちゃん?』  指がすらすらと動く。換気扇のついていないキッチンの静けさが、つんと耳の奥に響く。間もなくメッセージアプリの通知が鳴った。 『そうだよ。また職場で色々あったみたいでさ』  拭き上げた白っぽい樹脂の作業台に、亜佑美は電話を置いた。仰いだ空中に、ルームウェア姿の茉莉花から上る、甘いトリートメントの残り香が霧散する。 「私、本当に亜佑美さんに話聞いてもらえてよかったです。今日もこうやって二人でご飯食べてお喋りできて、なんだかお姉ちゃんができたみたい。ごめんなさい、ずっと憧れだったから。そういうの」  女同士で歓迎されることは少なかった、ともちらっと聞いた。そうかもしれないな、と亜佑美も内心頷きたくなる。  外見は女っぽく、おどおどとしていて、付き合ってみればどこかマイペースだ。合わない相手との関係構築には苦労するタイプに見える。  風船を膨らませるように吸い込んだ息を、数秒止める。亜佑美は掌の端末を持ち上げる。 『今日は本当にありがとうね! まりかちゃんち、居心地よくてつい長居しちゃったね。ごめんなさい。すっかりご馳走になっちゃって、まだお腹空かないくらいだよ笑 今度うちにも来てね』  今なにしてるの? とは打ち込まずにメッセージを送信する。  ベランダの横に置いたままの洗濯かごを持ち、寝室へ向かう。取り込んだだけの衣類を簡単に畳み、引出しへしまっていく。  大した量はない。新調したばかりの眞の下着に、亜佑美はちらりと目線を落とす。無頓着なはずの夫が新しく買った下着を数えるのはこれで三回目、畳むのは何回目だか覚えてもいない。  キッチンへ戻ると、メッセージの通知に電話が光っていた。 『こちらこそありがとうございました 私も沢山お話しできて楽しかったです! 今度よかったら、本当にヨガのこと色々教えてくださいね。一人だと絶対三日坊主になりそうでw またぜひ誘ってください』  ……『えー!教えられるほどじゃないけど 全然一緒にやろうよ』  切り上げるか悩んでから打った文面を前に、ふと肩周りの疲労を思い出す。ストレス発散にと、以前齧ったヨガを茉莉花との話題にはしたが、このところまともにできていない。構わず送信をタップする。  亜佑美はスマートフォンを置いた。冷蔵庫から緑茶を取り出して飲んでいると、間もなく端末が震え出す。即レスだな、と眉を持ち上げる。 『やったー! じゃあぜひ、うちでも、亜佑美さんのおうちでも。ちゃっかりすみません』  開いたままのトーク画面に、写真画像が飛び込んでくる。  昼間見た茉莉花の部屋のテーブルに、器に盛られたうどんが並んでいた。温泉卵と刻みねぎ。 『張り切っちゃったんで夜簡単にしたら麺ばっかりになっちゃいました』  思いがけず亜佑美は笑い出していた。大した意味はない、雑談的なやり取りのつもりだろう。無邪気さを心底微笑ましく思いつつも、ふと目線が画像の端に留まる。  水の注がれたグラスと、白い鉢が一つずつ、画像の端に見切れている。  もう一度画面を見下ろした。写真の奥にはうさぎのぬいぐるみが座っている。飾り気のない簡単な夕食に、食器は二人分。  波紋が浮かぶほどの混乱に、亜佑美は唇を歪める。
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