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片頭痛
話したいことがある、と茉莉花に連絡を入れたのは週明けの平日だった。
『えーっ……なんだろう。どきどきします』
昼時のその時間、電話口の茉莉花は普段と変わらない声色で呟いた。
「……ああ。大したことじゃないの、でも、今じゃちょっとね。急だけど、夜って空いてる?」
『大丈夫ですよ! じゃあ夜、またゆっくり聞かせてください』
会話の最後、『ヨガ、結局一人じゃ全然やれてないんですよ』とぼやく茉莉花に笑い返し、亜佑美は電話を切った。午後の仕事へ戻るために、小雨の中、駐車場を横切って歩く。
お姉ちゃんができたみたいで、と微笑む茉莉花の顔が湿ったアスファルトに思い浮かぶ。写真の端に映り込んだ食器が彼女の笑顔を掻き消す。眞の電話を震わせるメッセージの通知がよみがえる。
茉莉花が嘘を言っているようには見えない。
「彼氏、いないんです。なかなか出会いなくて」
いつだったか、恋愛の話題になったとき、茉莉花が歯切れ悪く告げたのを思い出す。好きな人も? と訊ねた亜佑美に、茉莉花は口をすぼめた。顎に皺を寄せた表情が子どものように見えた。
「それは。今は……片思い、みたいな」
小さく折り畳んだ夫の新しい下着が、頭をかすめる。
目の奥が引きつるように痛む。
雨のせいだ。低気圧で頭痛がしている。亜佑美は思考を止め、霧を浴びた髪先を払う。
職場の通行口を通り、すれ違う同僚に「お疲れ様です」と笑い返す。帰りが遅くなる、と眞にメッセージを入れておこう、考えながら側頭部を揉む。
*
『すみません。ちょっと急ぎの仕事が回ってきてしまって…今晩、1時間かもう少し遅くなりそうです。亜佑美さん大丈夫ですか?残り、急ぎます』
絵文字のうさぎが泣いている。
頭痛の種は砕いておきたい。が、これ以上粘ろうとする気勢を削がれていた。
『大丈夫だよ! 仕事なら仕方ないし、明日もあるのにまりかちゃんまで遅くなっちゃうから。私も急でごめん。今度にしよう』
時折響く程度だった痛みが、夕方が近づくにつれひどくなっていた。締めつけるような頭痛に、思わず首を触れる。驚くほど冷たかった。
『せっかくなのに、本当にすみません。間が悪くて…』
茉莉花からは残業を詫びるメッセージが届いていた。返信する間もなく書類が降ってくる。
残りの業務を終え、亜佑美は自家用車に乗り込んですぐ、ポーチから取り出した鎮痛剤と胃薬とを飲み下した。次は夕食後に、と思っていたが、天気のせいか効きが悪い。
今朝飲んだ野菜ジュースが内頬に滲みた感触を思い出す。胃の荒れ具合も気がかりだったが、食後まで待てそうにもない。
注意力を振り絞って車を走らせ続ける。今日は黙って寝ていよう、このところ寝つきはすこぶる悪いが、身体を横にして目を休めているだけでも少しは違うはずだ。
赤信号の停車中にこめかみを押さえながら、ふと思い至る。
夫の夕食をどうにかしなければ。冷凍フライが数種類残っていたのを思い出す。今日はサラダとフライだけでいいか、薄切り肉を簡単に炒めるだけでもすべきだろうか、けれどまだ鎮痛剤が効いてこない。
以前は気にならなかった少しの手抜きが、眞の浮気を疑い出してから、まるで自分の落ち度のように思えてしまう。
見慣れた住宅街が眼前を過ぎていく。マンションの前でハザードランプを点け、駐車を済ませる。亜佑美はのろのろと鞄を肩へかけた。
頭痛の為か普段より仕事が捗らなかった。結局、用事がなくなった分残業をしてきている。
エレベーターの中で壁に背を預けている間に、ふと思い出していた。
帰りが遅くなるとは連絡した。が、用事が延期になったと眞に知らせるのを忘れている。
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