居場所

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居場所

 鍵はかかっていた。  女の細い呻き声が部屋の奥から聞こえたような気がする。  三和土の上に、履いた記憶のないパンプスが並んでいる。  脈打つような痛みと既視感とが視界を霞ませた。  見たくない。見覚えのない靴だとか、スイーツだとか、ホテルだとか、もう沢山だ。  亜佑美は緩慢な足取りで廊下を踏んだ。リビングに夫と選んだソファがある。眞は柔らか過ぎるほどのものを選びたがった。長く使うことを考えて散々悩み、腰に障らない適度な硬さのソファをようやく見つけ出した。  眞の隣。座り心地の染みついた自分の場所に、見知らぬ女が寝そべっている。はだけた衣服から覗く、皺の寄った肌着とクリームのような色をした素肌が、下手なコラージュ画像のように不自然に浮き上がって見えた。  弾かれたように夫が振り返る。  笑顔でいることの多い男だった。初期設定じみた微笑が消えた真顔は亜佑美にも見慣れない。女のスカートに差し込まれたままの手が、ぴたりと動きを止め、熱湯を避けるように退くのをただ眺める。 「……その人だったんだ」  その女は茉莉花によく似ていた。  ──似たような子に見えるんだけどなあ、小木さんも立石さんも。  思い出したのは眞の言葉だった。そもそも茉莉花と立石の相性が悪いんじゃないか。亜佑美がそう訊いたとき返ってきた言葉だった。  女は目を大きく見開いている。困惑に開いた口と、小ぶりな黒目がちの瞳は、亜佑美にうさぎを連想させる。  うさぎなら偽者か。……違う、本物だ。茉莉花が偽うさぎになって知らせに来たのだろうか?  淡い嘲笑に、亜佑美の口元が歪む。  ……ああ、違うんだ、同僚で。話があったから。それで。  忙しなく夫の唇が動いている。ずきっ、と中核へ響く痛みに、亜佑美は声を上げそうになる。後ろ首が焼かれるように熱い。あまりに熱く、皮膚の下に錯覚じみた冷気が充満する。  どうでもいい。……今日はずっと頭が痛かった。休みたい。邪魔をされない自分の居場所に座って心をほぐしたい。 「どいてよ」 「……は?」  眞の声が宙に浮き上がる。肩を滑ったバッグの持ち手を、亜佑美は握り潰す。昔サンタが運んできた、今はもう流行遅れのバッグが床へ叩きつけられる。 「どいてって言ってるのよ!」  身を翻す。キッチンの水切りかごには、今朝フルーツを剥いたナイフが置かれたままになっている。掴み上げて切っ先を突きつける。ソファに居座る女の身体が、緩慢にラグの上へずり落ちていく。遅れて、その表情が泣き出しそうに歪む。  甲高い悲鳴を、眞が全身で庇うように遮る。だらしなく緩めた襟元の上で夫の口がなにかを叫んでいる。けんかの仲裁をするように両手を広げた姿に、亜佑美は笑いたくなる。  誰のせいだと思っている?  当たり前の幸せが守れたらそれでよかった。はみ出さずに、当たり前のことを当たり前に毎日積み重ねてきたのは、両輪で夫婦として走っていきたかったからだ。  その努力を、何故この男はこんなにも無邪気に壊してしまえるんだろう。  発散だけを求めて、熱い吐息が喉を裂く。  そんなに不満か。圧だの、熱だの、出てくるに決まってる。あなただと思ったんだ。もうとっくに空気になってるみたいにあなたしか選べないのに、どうしてあなたは私を選ばないの。  どうしてまた私を裏切ったの。  痛覚が環を描いて額を縛りつけている。  見下ろしたナイフの刃先が、蛍光灯の光を跳ね返して白く光る。  迷わず振り上げたところまでは記憶にある。
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