相談女

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相談女

 遂にうちにもその手の女が来たか。 「相談女」という文字を反芻しながら亜佑美は頷いた。ジンソーダの缶を持ち上げる亜佑美の眼前で、夫の(まこと)が牛しぐれ煮の茶色い皿へ箸を伸ばしている。 「……そうなんだよ。色々悩んでるみたいで、話聞くようになってさ。だからなにって訳じゃないんだけど、飯付き合ってるのも、普通に、職場の先輩としてな?」 「そんな念押さなくても。なんか私が勘ぐってるみたいじゃん」 「んなこと言ってないじゃん。俺帰って来ないと飲めないし、一杯やらなきゃ休まらないわ」 「飲めないから?」 「んーなこと……言ってるか」  あっはっは、と息の合った笑声が上がる。並んで座る夫婦の眼前に、日本酒と缶入りのジンソーダ、乾物と常備菜のつまみがいくらか置かれている。  元より好みもしない晩酌に、一日おきで付き合う亜佑美は、淡々と苦い酒を飲み下していく。 「そっかあ。色々あるよね、眞くんも」 「俺はこんなだから、色々気にしてないけどねえ。まあ、その子がちょっと……って訳でもないんだわ。大人しいタイプだけど、仕事はよくやってると思うし、他の社員とも大丈夫そうだったんだよ。ただ、この間ね」  亜佑美が細かく相槌を打つ。眞は弱った風に眉をひそめた。 「泣いてたんだよな。給湯室で。ちょっとスルーできなくてさ、声かけたら……『もうきついです』って小さくなっちゃって」  光景が目に浮かぶ。これはもしかすると本物の、真剣で切実な相談なのかもしれない。  針でつつかれるように良心が痛むのを感じた。ミックスナッツのアーモンドを摘みながら、亜佑美は緩慢に項垂れる。 「それはほっとけないよね」 「だろ?」  二度頷いて、亜佑美は顔を上げる。頬張ったアーモンドを口の中で砕き、飲み下したついでのように言い添える。 「よかったら、私も話聞くよ。そういうのって女同士だからわかることとか、話せることも、あるかもしれないし」  眞が顔を上げる。既に薄赤く染まり始めた頬が、ぎこちなく歪んでいる。 「そうか?」 「うん。その子がよければ、だけど」 「……そうかもなあ。うん、だな。今度聞いてみるか」  肩が脱力するのを受け流し、亜佑美は缶を置いた。思いの外あっさりとしたものだな、と拍子抜けするのと同時に、自身の穿った見方が意地悪く思え、恥じ入る思いが込み上げる。  まだ油断はできない。  摂り過ぎないよう気をつけているカシューナッツを摘み上げ、亜佑美はにこりと頬を緩めた。 「聞いてみて。私は全然行くから」  油分の多いナッツが砕け、香りが口いっぱいに広がっていく。悪いなー、と頷き返す眞は既にスマートフォンへ目を落としている。  これが初めてではない。  しまい込んだ形のまま皺の寄った、タンスの肥やしに近い記憶が引き上げられ、湿っぽく臭う。  眞には前科がある。 『今日ごめん 結局彼女が来てて。来週なら先約って言ってあるし絶対大丈夫だから』  数年前、二人が夫婦になるより前のある日だった。仕事が思いがけず早く終わり、彼の部屋へ駆けつけた金曜の晩、亜佑美はそのメッセージをついに見つけた。張本人の眞はセックスのあと、ロフトのベッドで心地よい寝息を立てていた。  震える指は動きを止められなかった。眞の電話にはいくつもの痕跡が残されていた。  検索履歴に、亜佑美が一緒に行ったことのない外食店、一緒に食べたことのないパティスリーのチョコレート、一緒に泊まったことのないラブホテルの名前を、次々と見つけられた。 『彼女なんかしんどいんだよね 俺も結婚とか考えなくもないけど』 『なんつーか、圧がすごい』  汗の絵文字のついた一文は、かなり古いものまでメッセージを遡ったところに、ぽつり、と落ちていた。ディッシャーで丸く抉られたように胸が狭くなる感触がしたのを、亜佑美は覚えている。  その後、どのように眠りに就き、翌日彼と過ごしたかは記憶が曖昧だった。ふっと灯りの消えた画面に映る自分の顔が、無様に憔悴していたことだけが、やけに亜佑美の記憶に残っている。くたびれた目元の影まで鮮明に。  ほどなくして、眞の地方転勤が決まった。  次の四月に時期を合わせ、亜佑美は大学卒業後勤め続けた職場を退職し、眞と共に支社のある地方都市へ転住した。  それまでに経験のないほどの変化だった。県外へ出て暮らしたことのない亜佑美にとって、初めて訪れる街での新生活は未知そのものだった。  眞からは、はっきりとプロポーズを受けた。 「結婚して向こうで一緒に暮らそう」  奮発をしたのであろうレストランの帰り、差し出された指輪を、亜佑美はしばらくぼんやりと見つめることしかできなかった。  味わった経験のない、苦々しくもある寂しさ、あるいは虚しさが一瞬で胸を満たした。  この人は、私がなにも知らないと思っている。  言葉が見つからないままに眞の顔へ目線を上げる。強張った頬を不格好に緩める眞を見て、ふいに肩の力が抜けた。亜佑美はただ微笑だけを肌に乗せて眞に頷き返した。  こういう人だもの、と不思議と腑に落ちていた。今振り返っても、心から亜佑美はそう思う。  サプライズを喜ぶ男だった。クリスマスにサンタクロースの帽子を被り、白い袋に亜佑美の欲しがっていたブランドバッグを詰めて帰ってきたこともある。子どものような無邪気さがあり、一緒にやったゲームのスコアで亜佑美に負けると本気で悔しがった。それさえ亜佑美には可愛いものに見えていた。  仮にすべてを表沙汰にすればどうだろう。眞との結婚、六年間の交際は白紙に戻る。振り出しに戻り、一からやり直す亜佑美に、若い女しか持ち得ない商品価値はない。残るのは、結婚目前にして逃げられた、とうのたった女ただひとりだ。  亜佑美のすべきことは単純だった。目に焼きついた画面の一切を忘れ、これまで通り、長く付き合った彼女の振る舞いを続けること。すべてなかったことにすればよい。
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